言いたいことあるならゆってみ?






に な ん て 願 わ な い







 会えない、いや会わない時間は皮肉めいたほど瞬く間に過ぎ去って、気づけばひと月にもなろうとしていた。お互いがほんの少し、たとえば苦手な上司に話を通してもらうとか食事の時間を削るとか、ほんの少しだけ無理をしたらいくらでも会うことはできたのだから、やはり会えなかったというよりは会わなかったという方が正しいだろう。その肌を声を恋うて我が身をかき抱く夜も、まあなかったと云えば嘘になる。でもほとんどなかった。日々仕事に追われ、床に就くのは大体いつも夜半過ぎで、大体いつも彼の人の夢もみることなく泥のように眠った。
 隔たれた時間が距離が思いを深めるなどと、自己暗示めいた綺麗事を本気で信じていたわけではない。今頃あのひとはなにをしているんだろうか、なんてわざとらしくため息をつくことには自己嫌悪すら感じたし、脳内でどんどん美化されてゆく彼の人の姿にはむしろ我ながら辟易した。会う努力もせずに「会いたいなあ」などと口走ることは罪悪に他ならなかったから、消えそうな彼の人の面影を必死でつなぎ止めようとする無意識を意識的に抑え込んでいた。そうした方が、多分楽だった。




「あ、れ」




 妹子じゃん、と声をかけられたときにはもう遅かった。その声を、それ以前に独特なその匂いが鼻をくすぐった瞬間、大きく鼓動を打った心臓は瞬間的に不整脈を起こし今の今まできびきびと動いていた手足を麻痺させた。滑り落ちた書類が宙を舞う。


「わ、やば……!」


 あわてて我に返り、板張りの廊下に膝をついて散らばった紙をかき集める。全部が全部重要なものだから、なくしてしまったりしたら責任問題なのだ。手の中で揃えて慎重に数をかぞえていると、ほい、と目の前に拾いそびれた2枚が差し出された。


「あ、すみません」
「おいおい大丈夫かぁ? 疲れてんじゃないの?」


 労働基準法作ってやろうか、としゃがんで顔を覗き込むその人こそ、目の下に隈をつくっている。仕事、してたのか。驚きを感じない自分がむしろ驚きで、ジャージの上に羽織ってずるずる引きずっている上衣すら常識に囚われない為政者の象徴に見えてしまう。判断力が鈍っている。


「忙しい、かったですね。お互い」
「そーだなあ、もう三代先の分まで働いた気がするんだけど」
「僕は多分七代先までくらいです」
「それでもまだ残ってる、っていう、ね」
「あはは、本当に」


 軽く笑って、きっちり揃えた書類に目を落とした。早急にこれを届けねばならない。届けたらすぐに戻って、膨大な事務処理をこなさねば。自分の指示を待つ部下もいる。やるべきことが、たくさん。
 わかっているのに、ぺたりと座り込んでしまった身体はやけに重かった。


「仕事は」
「あるよ。行くよ」
「じゃあさっさと行ってください」
「おまえこそ」
「太子に言われたくないです」
「妹子に言われたくないよ」



 顔が上げられなかった。裸足の足元と、青ジャージの膝と、その上で組んだ腕と、床に広がる衣の模様で視界がいっぱいだった。それらプラス声と匂いで、意識さえいっぱいで。



 ふと、床に影がさした。
 ぽん、と頭の上に骨ばった手が置かれる。




「ひさしぶり」




 手のひらをぴったりくっつけたまま、指先がぐしゃぐしゃと髪をくすぐる。やめてください、と言おうと思ったのに、声が出なかった。口を開いたら、嗚咽になりそうだった。





 あいたかったあいたかったあいたかった





 こんな気持ち、押し殺そうなんて土台無理な話で。ため込んでため込んで、ギリギリのすんでのところでやっと気づいて。


 どうしよう、名前を呼びたいのに抱きつきたいのに頭のてっぺんから足の先までなにかぐるぐるしたものが満たして、それは解放しがたい熱にも似てもどかしく狂おしく心地よく、ただわずかに肩が震えて




 今この瞬間、僕以上にだれかを欲しがっている人間なんているんだろうか?





「あぁあもう!」
「は?」


 太子がいきなり吠えた。びっくりして、思わず間抜けな声を出してしまう。
 顔を上げるのと同時くらいに、頭から離れた手が腕を掴んだ。


「ちょ、どこ行くんですか離してください!」
「だめ」
「だめってあんた!」
「もうだめ、辛抱たまらん」


 ぐいぐいと腕を引っぱる力は予想外に強く、引きずられるように歩いてゆく。僕はと云えば、今度は書類を落とさないようにするだけで精いっぱいで。


 人目を避けて辿り着いたのは摂政の執務室だった。派手な音を立てて戸を閉めるやいなや、力まかせに抱き寄せられる。



「た、たい」
「あー! 会いたかった会いたかった会いたかった! おかしくなるかと思った!」



 首筋に顔を埋められ、「あー人肌おちつく」なんてかすれた声で呟かれ、耐えられるかなんて云われたらそんなのは訊かれるまでもなく。
 背中に回した両腕は書類の束の代わりに上衣をぎゅうと掴んで、手の中で絹地が少し滑った。



「ゆってみ?」
「え」
「今思ってること、言ってよ」



 囁く声は熱を帯びていて、ぞくぞくと背筋を撫でた。言って、と再度促されてちいさく口を開ければ、口蓋から舌が離れる音がリアルに耳に届いて更に高揚する。





「あい、たかった」





 限界寸前のそれが、やっとこぼれた。
 もっと言って、なんて太子が少し上ずった声で言うから、止まらなくなる。




「会いたかった、会いたくてたまらなかった」
「もっと」
「ほんとは仕事なんか放り出して太子のとこに行きたくて、でもそんなことできるわけなくてしたくもなくて」
「うん」
「でもほんとは会いたくて、さっ、さびしく、て」
「うん」
「し、しにそう、とか、ばかみたいに、本気で、思っ……」
「妹子」



 涙で目の前がにじみはじめたところで、不意に言葉を遮られた。口をつぐむと自分が急に恥ずかしくなってくる。太子の肩口に鼻から下を押しつけて、荒い息を整えた。



「今日って何月何日だっけ」
「え……七月七日、だと思いますけど」



 ああやっぱり、と少しおかしそうに言うから、なにがですか、と尋ねた。
 首筋から顔を離した太子は僕の後頭部をよしよしと撫でて、多分気持ち上を向いた。




「会える日だ」




 なんのことだかわからなかった僕は、きっと訝しげな表情を浮かべていたことだろう。それでも太子はなんだか嬉しそうで、そのことは僕をも訳もなく幸福にさせた。
 ちらりと目線を上げる。半分開いた木窓の向こう、紫の空に星がふたつ、光った。