なかったことになればいいのに。あんたも、僕も、最初から存在してなければよかったのに。交わす言葉も、触れる指も、この多幸感も焦燥も傲慢な恐怖もその根源から消え失せてしまえばいいのに。 求めるのも突き放すのも動機の要る行為だ。そして僕らには、それがない。
グッバイアタラクシア
いっそ恋をするために生まれてきたのならばよかったのか。そして自分はあるいは本当にそうなのかもしれない、などと世迷い言を呟く。 天命なんか知らない。神様なんかいやしない。こうしてあんたと過ごすだけで僕は世界一幸福で不幸で、きっとほかに成せることなんかなにひとつありはしないのだ。そんな白痴じみた、人として堕落した思考に身を任せる。 夜、灯りもつけず、一枚の上掛けに二人でくるまり、壁に背を預け寄り添って、手遊ぶように指を絡め。暗さに慣れた目に、闇が模糊とした霧状に映る。あれがあんたから脱け出したたましいだったら、僕は一息に吸い込んでしまうのに。そんなばかみたいに甘美なもしもが、頭をよぎる。 「妹子」 「はい?」 「しよっか?」 「どっちでもいいですよ」 あっそじゃあしない、と太子が拗ねたように言うので、もう一度「どっちでもいいですよ」とくりかえした。戯れにつないだ指に力を込める。骨と骨の当たる痛みにぼんやりと酔っていると、するりと太子の手が逃げ出した。その手は迷いなく首の後ろを通って僕の頭を抱き込み、壁伝いにゆっくり倒れてゆく。板張りの床に寝転んだ太子は身じろぎし、仰向けに直って胸の辺りに僕の顔を押しつけた。 「え、なんですかこれ、罰ゲーム? マジで臭いんですけど」 「うそ、ちゃんと風呂入ってきたよ」 「どうせカレー風呂だろが」 「いや、ミルクとドンペリ風呂」 「どこのセレブだよあんた」 軽口を叩き合いながら、僕は太子の身体をよじよじと這い上って首筋にキスをする。弱いんだよな、ここ。 顎の下とか喉仏とか鎖骨とか、震える息や引きつるように喉を鳴らす音を楽しみながら舐めたり甘噛みしたりしていると、つんつんと後ろ髪を引っぱられた。顔を上げると、ちゅ、と額に唇が落とされる。 「あんまりいじめるでないよおまえは。誘ってんの?」 「どうとでも」 一言で返して床に手をついて起き上がろうとすると、阻止するように抱きしめられた。肩口にまた顔が埋まったので、薄い皮膚の上から首をもう一舐めした。汗の味がした。 「あは、やっぱ誘ってる」 どこもかしこも密着するくらいぎゅうぎゅう抱きすくめといて、どっちの台詞だよ。 その割には僕らは互いにすがりついたままの膠着状態で、先に動いたりしゃべったりした方が負け、みたいな勝負をいつ始めたのかは記憶になかったけれど、太子の生ッ白い首元を間近に見ながら僕のできることと云ったらゆるゆると息を吐くか意識的にぱたぱたと瞬くくらいのものだった。僕の服の布地を掴む太子の指先は、まるでおさなごのようだった。 了解なしに開始された根競べは闇に吸い込まれるように曖昧に終わる。太子はすり、と僕の背を撫で、僕は身じろぎして床に触れていた手を動かし、太子の二の腕のあたりにそっと添えた。 犬にするように太子は僕の髪に鼻をすりつけてから、まどろむような声で呟いた。 「妹子はほんとに私が好きだなあ」 ええそうですよ悪いかばかやろう。棒読みにそう返すと、太子が吐息で笑った。どんな顔で笑ってるのかとか、見たくなくて目をつぶって唇を引き結ぶ。 嘘だ。見なくたってわかってしまう。喉に飴でも詰まらせたような苦しそうな顔なんだろう、どうせ。なんでわかるのかって、きっと僕も今同じような表情を浮かべているだろうから。 ああ、あんたは卑怯だ。臆病だからそんなにも卑怯なんだ、そうだろう? そんなこと全部わかってて知らないふりをする僕は生娘でもなんでもなくて、さしずめあんたを僕を呪う魔女だ。幸せな結末を迎えるための属性なんて、僕らは最初から持ち合わせちゃいない。 「あー、なんかちょっと寝そう」 「僕も少し眠いです。寝ましょうか」 「いいんだけどさ、このまま寝たら私多分窒息する」 そんな言葉に笑って、ころんと太子の上から降りる。落ちていた上掛けを手繰り寄せ、再び共にそれにくるまった。横向きになって骨ばった肩に額をくっつけ、また目を閉じた。なにかを探すようにさまよう手には、寝つきの悪いこどもにそうしてやるように僕の手を握らせる。ぎゅうと強く、でも隙間だらけに絡められた手は、穏やかに上下する太子の胸の上に落ちついた。 そうして眠りに落ちてゆく。逃げるように。あるいは逃がすように。 (なんでかなあ) (なんでこんなに悲しいんだろうか) あんたは僕じゃなくてもいいし僕はあんたじゃなくてもいい やがて辿りつくそんな真理を残酷だと思えるほどには、僕らはこの恋に溺れきっている。 |