やがて満ちた夜は紫紺のけむり。ゆうらり、漂っては辺りを包み。 きつね。いぬ。ちょうちょ。 行灯に照らされ、次々と影が障子に映し出される。湯に行った連れを待つ間の戯れにはじめた影絵あそびは、芭蕉を思いがけず童心に返した。幼い日の記憶を辿りながら、おぼつかない手つきでさまざまなものを表してみる。 「かえる、なんてのもあったなあ」 思い出してやってみようとするけれど、どうにもうまくいかない。両の手を重ね合わせてなんやかんやした形はどうしたってかえるには見えなくて、はがゆさを覚える。ああでもないこうでもない、としばし孤軍奮闘していると、背後ですす、と襖の開く控えめな音が聞こえた。振り返り、薄闇の中の弟子に「おかえり」と告げる。 「まだ起きていたんですか、芭蕉さん。明日に差し支えますよ」 「だいじょーぶだいじょーぶ。それよりさあ曽良くん、かえるってどうやるんだっけ?」 「かえる? ……ああ、影絵ですか」 曽良は訝しげに眉を寄せてから、師匠のこんがらがった指と壁に大写しになったその影に得心がいったように声を上げた。首にかけていた手ぬぐいをするりと抜いて座卓の上に置き、それならこうです、と骨ばった長い指を組み合わせる。 「こう?」 「いえ、そうじゃなくて、人差し指をこう……」 暗くてよく見えないよ、と芭蕉が言うものだから、聞こえるように舌打ちをしてから灯りの傍にかがんだ。組んだ手の角度を変え、照らして見せてやる。 「こう? 合ってる?」 見よう見まねで同じように形作り、首を傾げて問うと、弟子は軽く頷いた。覚えてないもんだなあ、と独りごちながら、布団の上に座り直して障子に影を映した。ちゃんとやったところでやっぱりかえるには見えなくて、なあんだ、と思う。 横から腕を伸ばしてきた曽良が、隣に影を並べる。微妙に輪郭の異なる二匹のかえる(らしきもの)が、ちらちらと燃える蝋燭の火にゆらめいた。げろげろ、と芭蕉が鳴きまねをしながら口の部分を動かすと、曽良が指を組み換える。 「それは?」 「メスです。芭蕉さんのがオス」 「え、かえるってオスとメスで違うんだっけ」 「さあ、それは知りませんけど。僕が母から教わったのはこのふたつです」 何度かその形をうごめかせ、飽きたようにほどく。そのまま、ごく自然な動作で師匠の膝に頭を乗せた。 「そ、そらくん? 寝るなら布団で」 「寝ませんようるさいな。黙って枕になりなさい」 「なりなさいって君……命令形かよ」 一体どうなってんだよこの弟子、と嘆きつつ、芭蕉もかえる(オス)の手をほどいた。濡れたままで冷えている黒髪を指先でそっと梳き、その合間に見えるすこし火照った湯上りの肌に微笑む。 「曽良くん、こどもみたい」 ほんのりと赤い頬。影絵あそびも、こんなふうに甘えるのも、いつもの彼らしくない。気まぐれにこんな姿を見せられたら戸惑ってしまうけれども、なんだかくすぐったいような嬉しいような気持ちもする。 と、いつもなら断罪ものの台詞を素通りされたことを疑わしく思い、軽く頬をつついてみる。膝の上の弟子はやはり無反応で、本当に眠ってしまったのだろうかと芭蕉は顔を覗き込んだ。途端、 「っわ」 首に手を回され、ぐいと引き寄せられる。ちゅ、と一瞬だけ唇が触れ、離れた。 「……曽良くんっ」 「こどもの悪戯です」 しれっと言う曽良には完敗とばかりに、芭蕉はため息をつきながら笑った。今度は自分から顔を近づける。障子の白の上で、ふたつの影が再び重なった。 やがて満ちた夜は紫紺のけむり。ゆうらり、漂っては辺りを包み。ゆうらり、漂ってはふたりを隠し。
幻 燈 機
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