ひとつ似合わないことを言うならば、人が生きることにはきっと意味があって人生には目的があって。
 どんな崇高なものであれ卑小なものであれ、それが人の中身であることは事実で。
 だから何もかもを終えてしまった私は、もうからっぽなのだと思う。






  Re:born






 することが何もなかった。
 いや、放置していた自宅の掃除だとか、科学誌から依頼された原稿だとか、完成した電話の売り込みや量産の計画だとか、それこそやるべき些事はいくつもあった。ただそれらをこなすには私はどうにも腑抜けてしまっていて、幸か不幸か周囲も安心して疲れが出たのだろうなどと甘やかしてくれたので、だから私は以前にも増して廃人のように日々を過ごしていた。
 自宅の裏手には公園、とは名ばかりの空き地があって、その隅っこの木の下のペンキの剥げかけたベンチに座って日がな一日ぼんやりしているのがここのところの私の常だった。私のような薄暗い人間には空なんて眩しすぎてとても見上げられたものじゃなく、ただうなだれて地面を流れる雲の影を眺めていた。自分は止まったままで動くものを目で追いながら、日が暮れた。
 もうどれだけ人と会話していないのだろう。日付の感覚も消えていて、一体今日がいつなのかもわからなかった。このままいろんなことを忘れて、忘れられていってしまえばいいのに。



 太陽は南中を過ぎた。目を閉じると、不定形な光と透けた血管が瞼の裏に赤い。私は細く息を吐きながら、指先からじりじりと灰になってゆくさまを夢想した。崩れて、舞って、音もなく。



「ベルさん」



 不意に名を呼ばれ、反射的に目を開いた。肋骨の下まで消え去っていた私の身体は一瞬のうちに再生する。
 視界の隅に靴先が見え、のろのろと顔を上げる。



「お久しぶりです」



 目の前の彼が太陽をさえぎって立っていてくれたおかげで視線を上げることができたけれど、肝心のその顔は逆光でほとんどわからなかった。口元に浮かぶ懐かしい笑みだけ、なんとか視認する。
 言い知れない痛みがこみ上げる。




「……トソ、く」




 声を出したのは何日ぶりだろうか。彼の名が喉に絡みついて、ああ渇いている、と感じる。
 彼は少し歩み寄った。気づかわしげに言葉を紡ぐ。


「顔色、悪いですよ。ちゃんと眠ってるんですか」


 そっと頬に触れられ、私はちいさくかぶりを振った。24時間ずっと浅い眠りのような感覚に侵されていて、泥に沈み込むがごとくはっきりとした睡眠はここしばらくとっていなかった。
 そうですか、と呟いた彼に頭を抱かれる。もしかしてこれは幻覚か。
 かすめた不安を拭い去るように、背中に回された手が何度も撫でるように上下した。触れられる、この感じ。温もり。匂い。泣きたくなって、彼のシャツをきゅっと掴んだ。


「ベルさん、講演とか論文とか全部断ってるでしょう。僕のとこまで話が来ましたよ」
「あ……ごめ、」
「謝ることないですよ。僕はただの電気屋だし、ちゃんと断りましたから」
「そ、か。ごめんね」
「また謝る」


 頭上から呆れたような笑い声がきこえ、私はそのまま彼のシャツに顔を埋めた。察した腕は、少し力を込めて私の身体を引き寄せる。自分の心臓がまだ動いていることを実感する。

 真昼のベンチで不自然に抱き合ったまま、私たちはいくつか他愛もない話をした。私の声はかすれているうえにくぐもって、おまけにつっかえつっかえでひどく聞き苦しかったけれど、彼は相槌を打ちながらちゃんと聞いてくれた。彼の声は時折鈍化した私の頭の中をそのまま通り抜けたけれど、それすらもひどく心地よかった。





 許されることではない、と思う。
 電話の研究はこれでいったんピリオドを打った形となり、これ以上彼を束縛する権利は私にはなかったしすべきではないと思う。なすべきことを失った私はもはや空洞で、彼のような有能で未来もある青年のそばにいていいようなものではなかった。この腕の中にはいられない、いてはいけない。
 ああ、だからどうか優しくしないで。違う。彼の優しさにつけこんでいるのは私だ。この愚劣な性根が、自らのために彼から自由を奪おうとしているのだ。なんと、醜い。





 私はやや乱暴に彼の身体を押し返した。驚いたように覗き込まれる。


「どうしたんですか?」
「もう、いいから」


 陰気な声で呟く。


「君はもう、私のそばにいる理由はないんだ。君には感謝してる、だから」



 もういいから。
 俯いた。私は彼に何ひとつ与えられない。そして彼は優しいから、私の空洞が満ちるまでいくらでも与えてくれるのだろう。そんなのは、耐えられない。
 傾きはじめた陽が、斜めに目を刺した。



「僕はもう、あなたの助手じゃないんですか」
「助手なんかいらないんだよ、もう」
「じゃあ僕は?」


 かがんだ彼が、私の肩を両手で掴んだ。低い位置から見上げてくる。




「僕は、いらないんですか」




 静かな口調で問われ、真摯な瞳の色に呼吸を忘れる。






 言い知れない痛みが、
 痛みが






「んっ……」






 いつの間に閉じていたのか、唇が離れると同時に開けた視界はぼやけていた。
 まなじりに降るキスに、自分が泣いていることを知る。


「ど、して……」
「ベルさんは」


 再び抱きしめられる。
 今度は彼の頭が肩口にあって、耳元で声がきこえた。


「無意識で無自覚で、そのうえ鈍感だ」
「う……」
「どうしてわからないのかなあ。僕の気持ちも、自分の気持ちも」
「……自分のは」
「僕がいらないっていうのは考えたことでしょう。思ったことは?」
「え」


 瞬いていると、少し身体を離した彼が私の頭を撫でながら笑った。「まあいいや、僕から言いますね」と前置きし、笑みを残したまま真剣な顔つきになる。






「僕は、ベルさんのそばにいたいです」




 あなたは? と、目線が問う。





 私は、


 私も






「ワトソンくんに、そばにいてほしい」



 けど、と語尾が弱くなる。目をそらしてしまいたかったけれど、叶わなかった。いたたまれなくて死んでしまいたい。
 そんな様子をくすりと笑われる。


「けど、はいらないです」
「でも」
「でも、もいりません」
「だって、だってさ、私」
「いいじゃないですか。おんなじ気持ちですよ、僕たち」




 そう言って、彼は今まででいちばん嬉しそうな表情を浮かべた。
 それを見たらおかしいくらいに幸福になって、思わず私も頷いていた。










 ひとつ似合わないことを言うならば、人が生きることにはきっと意味があって人生には目的があって。
 自分のなすべきことを終えて、それでも生きてゆくために。







 日が暮れたら、手をつないで帰ろう。