キーボードを叩く手を止め、物音に耳を澄ませた。
 深夜である。朝刊が届くにはまだ少し早い。築20年のマンションの階段を上る足音は自室の前を通り過ぎ、また戻ってきた。遠慮がちに鳴らされるチャイムが、間延びして響く。
 書きかけのレポートを途中保存して立ち上がり、玄関の明かりを点けてこちらは無遠慮にドアを開いた。


「ごめん、夜中に」


 青年は伏目がちに立っていた。無言で招き入れる。わたわたと靴を脱ぐ彼の肩越しに手を伸ばして鍵を閉めると、酒の臭いが鼻をついた。


「飲んでたんですか」
「常務に拉致られた。ったくどうにかしてほしいよあのボンボン」


 青年は片手で髪を掻きむしり、「ごめん、水貰えるかな」と言った。冷蔵庫の扉を開け(中はほとんど空っぽだ)、1.5リットルのミネラルウォーターのペットボトルを手渡してやる。まだ8割方入っているそれを重そうに持ち、彼は口をつけてこくりと飲んだ。唇が湿って赤が濃くなるのを見やると、僕は狭い部屋を3歩で渡って机の前に戻った。キャスター付きの椅子がギィと軋む。


「起きてた?」
「見た通り」
「なら、よかった」


 ペットボトルの蓋を閉めてローテーブルの上に置き、彼はベッド脇の床に座り込んだ。あー、と呻いてベッドにもたれ、天井を仰ぐ。


「妹子さん」
「なに」
「上脱いでください、掛けとくから」
「ああ、サンキュ」


 若干くたびれたスーツのジャケットを受け取り、ハンガーに掛ける。ラックに掛かった自分のスーツは入学式以来数度着たきりで、まだ真新しかった。
 彼はネクタイを抜き取り、傍らに置いた鞄の上に無造作に放った。また天井を仰ぐ。


「疲れてるみたいですね」
「んー、まあ」




 青年はひとつ空き部屋を挟んで向こうの部屋の住人だ。自分が大学に入るのと入れ替わりに卒業した先輩で、今は社会人3年目。年は4つ上だが、二十歳の自分と同じくらいか少し若くも見える。
 どうと云う関係でもない。一人暮らしを始めたばかりで心細かった自分と、就職したばかりで日々に忙殺されていた彼が、なんとなく引き合っただけ。最初はゴミ出しで顔を合わせたり、近所のスーパーでばったり出くわしたりで、それからだんだんと飲みに行くようになったり、部屋に遊びに行くようになった。仕事の忙しい彼の部屋はいつも荒れがちで、休日前などでぐっすり眠りたいときは時折こうしてうちにやって来る。


 友達なんて別にいらないと思っていたけれど、それでもやっぱり嬉しかった。最初は。
 ただ、だんだんと色を変えた感情が綯い交ぜになって自分を苛むようになるまでに、そう時間はかからなかった。




「僕明日ゼミなんで、10時半には出ますけど」
「んー……明日何コマ?」
「2と5だけです。昼帰ってきましょうか」
「ああ、じゃあ2限終わったらメールして」
「わかりました」


 頷いてパソコンに向き直り、レポートの続きを書き始める。提出期限はまだ先だが、直前になって焦るのは嫌いだ。かと云って早く提出するとゼミの担当教授が嬉しそうな顔をするので、ギリギリまで出さないでおくつもりだけれど。
 眼鏡越しにディスプレイを見つめながら、背後の彼に向けて「ベッド使っていいですよ」と言った。うん、と生返事が聞こえ、ごそごそと衣擦れの音がする。


「曽良」
「なんですか」
「ごめんね、今度なんか奢るし」
「いいですよ別に」


 何を今更、だ。
 自分はあまり他人に対して友好的なタイプではない。それは表情や言動から簡単に窺い知れるものであると、自分でもわかっている。彼がそれを知らないはずはないし、そんな自分が夜更けの訪問者を受け入れると云うのがどういうことか、彼はわかっているはずだ。
 ぼふ、と音がして、くぐもった呻き声が耳に届いた。枕に顔を埋めているのだろう。


「なにがあったか知らないですけど」


 タイピングする手を休めず、独りごちるように言う。


「利用できるものは全部利用したらいいんじゃないですか。僕でもなんでも」


 それであなたが楽になるなら僕は構わないし、と呟く。
 は、と背後で彼がため息で笑った。


「らしくないね。そっちこそなにかあったの」
「特になにも。強いて言うなら、好きな人が僕のベッドで寝てますね」
「はは」


 ならこの恩は身体で返そうか、と彼がくすくす笑いながら言った。
 僕は片手で眼鏡を外して立ち上がり、うつぶせた彼に覆い被さるようにベッドに両腕をつく。



「本気にしますよ」



 彼はごろんと仰向けに向き直った。大きな瞳が、少し充血しているのがわかった。




「してもいいよ」




 彼が言った。




 僕は無言のままベッドに肘をつき、顔を近づける。こつんと額を合わせると、息がかかる距離になった。酔いがまだ冷めないのか、少し呼吸が早い。薄く開いた口の中に赤い舌が見えた。視線は交わらない。
 膠着状態はひどく長いようにも、一瞬のようにも思われた。唇に噛みついた瞬間、そんなことはどうでもよくなっていた。


「んんっ……ふぅ……」
「……酒、臭」
「ふふ、ごめん」


 日本酒の味のする舌を吸いながら、あーやってしまった、とぼんやり考える。男同士で、彼はそろそろいい年で、自分も将来のことを考えなきゃいけない頃で、これからどうなるんだろう。どうしたらいいんだろう。



 ――どうでもいいか。



 キスをしながらスラックスからシャツの裾を引っ張り出し、するりと内側に手を這わせた。肌が熱い。指先で肋骨をなぞっていると、いつの間にか首に腕を回していた彼が後ろ髪に手を差し入れていたずらっぽく笑った。


「ゼミ行けなくなるよ」
「そんなに激しいのがいいんですか」
「さあ、どうかな」


 僕もう眠いから、曽良が我慢できるならそのほうがありがたいかも、と頭を撫でられる。子供扱いするな、と思いながら首筋に顔を埋めた。彼はくすぐったそうに身をよじり、またくすくすと笑う。


「あー、こりゃ駄目そうだね」
「煽ったのはあなただ」
「だよね。ごめんね、大人はずるいんだよ」


 耳に直接吹き込まれた台詞には答えず、ベルトに手を伸ばした。カチャカチャと鳴るばかりでなかなか外れずにもどかしく感じていると、それは横から伸びてきた彼自身の手で緩められた。一瞬の躊躇ののち、手を突っ込む。吐息混じりの声で曽良、と名を呼ばれ、それを飲み込むようにまた唇を奪った。






 利用してほしかった。朝になれば終わる、そんな関係で構わなかった。どうしようもないほどに手酷く傷つけられて、一生引きずって生きていければいいと、そう思った。
 ただ、自らを「ずるい」と言った彼のその誠実さが、あまりにも絶望的で。
 苦しくて苦しくて苦しくて苦しくて涙を流す代わりに舐めた彼の汗が、ひどくしょっぱかった。





夜が終わる
(妹子の会社の常務は太子、曽良は松尾ゼミ)