カーテンの隙間に身を潜り込ませ、窓ガラスに頬を寄せた。冷たくて気持ちがいい。重く鈍い頭痛を無視するように瞑目すると、ひとりきりの部屋の中には彼の幻影がいた。頭を振って追い払う。 ベッドは彼の匂いがする。否、そんなもの本当はとっくに消えているのだけれど。そう頭では理解していても、汗、唾液、精液、体臭、あの夜が染み付いたベッドで眠れるはずもなかった。シーツを替えればいいのかも知れない。でも、そんなことできるはずもない。 週3でしていた深夜のコンビニのバイトを辞めた。塾講師のバイトは人手が足りないから夏期講習だけでもと懇願されたので、じゃあそれだけ、と言っておいた。夏期講習なら昼間だから構わない。馬鹿馬鹿しくて自分でも笑ってしまうが、夜はできるだけ家を空けたくなかった。いつ彼が来るかわからないから。 半月だ。あれから半月が経った。あれ以来、彼とは一度も顔を合わせていない。 特別避けられているとか、多分そういうことではないのだと思う。彼の帰宅は相変わらず深夜で(物音でわかる)、家を出るのは毎朝8時で、働きづめの社会人と暇を持て余している学生ではそもそもの生活リズムが違うのだ。 玄関を出て数歩、壁2枚隔てたところにいるのだから、会おうと思えばいつでも会える。だから、会わないのは会おうと思っていないからだ。彼に会いたいのか会いたくないのか、自分ではよくわからない。ただはっきりしているのは、彼が会いたいと思ってくれたら、それはきっと気が狂いそうなくらいに幸せなんだろう、と云うことだけだ。 後悔はしていない。劣情を抑えきれなかったことを恥じてはいない。展開は劇的なようでその実予定調和であったのだろうし、誰も傷ついたりはしていない(それは結局のところ傷ついてはならないと云うことなのだろうけれども)。 そうだ。傷など残ってはならない。傷跡さえなければ、痛いのも苦しいのもなかったことになる。全部気のせいで、甲斐のない自己暗示で、ただ置き去られた事実だけが無感動に横たわる。 (彼がいた。) (彼を抱いた。) (舌を絡め、肌を撫で、穿ち) (彼の中に欲を吐き出した。) (朝が来た。) すり、と頬がガラスを擦る。頭ががんがんする。きっと心が重いのだ、と思った。捨てられるものは捨てていかなければ、自分は泥の淵に沈んで死んでしまうのだろう。でもきっと一番重いのは彼を思う心で、いっそくだらないほどの執着で、名付けることを拒まれた幽霊のようなこの気持ちだ。寄生植物の如く根を張ったそれが自分を蝕んで、蝕んで、何もかもをさらっていってしまうのだ。 「わすれたい」 思いついたから声に出してみたけれど、そんなのは嘘でしかなかった。いや、嘘である以前に意味すら持たなかった。記憶から消し去ったところで、からだが、部屋が覚えている。 起きてしまったことは、なかったことにはならない。なかったことになるのは心だけだ。その心さえ捨てられないのなら、全て抱えたまま朝を待つしかないのだ。 (ああ、あの日は眠れたのだったか。腕の中で眠る彼の頭を抱きしめて、束の間の甘く苦い夢でも見られたのだったか。) 薄目を開ける。点けっぱなしの蛍光灯の白は酷く暴力的だった。それでも、もうじき昇ってしまう朝日よりはずっとマシだった。
不眠症
|