昨日みたと云う夢の話を聞いた。空のずっと高いところに神様がいて(視点は彼なのだが、彼自身は神ではなかったそうだ)地上を見下ろしているのだけれど、高いところから下を覗き込むのが怖くて怖くてたまらなくて、治めるどころではなかったのだそうだ。それを知っているのは地上では彼(こちらは本物の彼自身)ひとりで、でもどうすることもできないからただ可哀相だなあと思いながら空を見上げている。 「神様も落ちたら死ぬみたいですよ。で、死んだら蟻になるんです、なぜか」 「それは、落っこちないか気が気じゃないだろうな」 「ええ、気が気じゃなかったです」 彼はいたずらっぽく笑う。神様と蟻じゃ月とスッポンよりひどいですよね、と言うので、蟻は蟻で悪くないと思うけれどね、と返した。 「じゃあ竹中さん、生まれ変わったら、神様と蟻と月とスッポンならどれになりたいですか」 「その選択肢の中からなのか?」 輪廻転生の真偽のほどはいざ知らず、戯れに投げかけられる問いに真剣に首を傾げてみせる。何かほかのものになりたいと思ったことはないけれど、強いて言うならば。 「うーん、その中なら月、かな」 「ほら、やっぱり蟻じゃないじゃないですか」 「そこはほら、うん」 だって蟻だったら水に入ると溺れてしまうし、スッポンは泳げるけれど食べられてしまう。その点月ならば水面をたゆたうこともできるし、自ら沈むから地に墜ちる心配もないだろう。 イナフはどうなんだ、と問い返してみると、彼は逡巡もせずに「僕は神様です」と答えた。 「イナフは神様になりたいのか?」 「なれるもんならなりたいですね。死んだらなれるのかな」 「どうだろう。太子は祀り上げられそうだな」 「ですね。落ちて蟻になればいいですよあんなん」 軽く吐き捨てると草の間を這う蟻を目聡く見つけ、潰さないようにそっとつまみ上げる。脚をじたばたともがかせる様子を少し目を細めて眺めながら、ねえ竹中さん、と彼が不意に言った。 「神様ごっこしましょうか。今から5分間だけ、僕が神様になります」 「私は?」 唐突な言葉にそう尋ね返すと、「竹中さんはそのまま」と答えが返った。まるで予期せぬ提案に二の句を継げずにいると、思考を遮るように彼がつまんだ蟻をぽいと放った。弧を描く黒い点を思わず目で追う。 「いいですか、じゃあ……はじめっ」 ぱちん、と胸の前で手を打ち合わせる。どうやらそれが開始の合図らしい。一体何をするのだろうと見守っていると、彼はすっくとその場に立ち上がった。私の前に回り込むと、緩やかな仕草で額に手をかざす。 「竹中さん」 厳かな(少なくともそう演出しようとしているらしい)声音で彼が言う。私もかしこまって、はい、と居住まいを正す。 「あなたはとても純粋な存在です。そして、綺麗で、優しくて、正しくて、無欲で」 「イナフ、褒めすぎだ」 「神託の途中です。黙ってお聞きなさい」 「すみません、神様」 笑ってしまいそうになるのを口元を手で隠してこらえながら、そっと彼の顔を見上げた。伸べられた腕の、その先に見える表情のあまりの真摯さにどきりとする。 彼は私の目線に気付く様子もなく、ただ続ける。 「あなたは美しい。けれどもあまりにも儚い」 それはさながら有明の月のようだ、と歌い上げるように彼は言う。朝日を誰になぞらえるのかは既に暗黙の了解で、私は少しだけ唇を噛み締める。自分ではなく、彼を思って。そして目の前の彼その人が、私を思ってくれていると確信しながら。 「そして、あなたがあなたであるからこそ、あなたはそれを恨むことすらしない」 私はそれが悲しい、と彼はすきとおった声で呟いた。今までに聞いたことのない、それこそ会ったこともないこの世界の神のような声だと思った。 神はなおも、大気に溺れる魚を見下ろして語りかける。 「ですから竹中さん、聞いていますか、竹中さん」 「ああ、聞いている。聞いています、神様」 「ですから、私は、あなたを」 神の言葉が途切れた。 代わりに、あたたかな掌が額に降りてくる。 「僕が神様だったら、あなたを世界一しあわせにするのに」 ほんの少し震えた声で彼が、ただの彼と云うひとが、言った。 5分もちませんでした、とぎこちなく笑う彼の手を取り、そっと頬に滑らせる。泣き出しそうな彼の目を見つめながら、ありったけの想いをこめて言った。 「しあわせだよ。私はとても、しあわせだ」 彼はくしゃりと歪めた顔で、また無理やりに笑った。私は重ねたままの彼の手にキスをする。彼の親指がそろそろと動き、頬骨のあたりを擦って、私はようやくこぼれ落ちる涙に気づく。 彼はしゃがみ込んで両手で私の頬を包み、そっと唇を落として涙の跡をなぞった。薄く開いたままの視界、彼の頬を滑り落ちてゆく水滴を拭ってやりたくて、私も手を伸ばした。少し迷った指先は、目尻に触れてから彼の耳の上辺りに差し入れられる。指の腹で耳殻をなぞり、細い髪を絡め取ると、見知った感触に安堵を覚えた。 喉の奥から言葉がこぼれる。 「しあわせなんだ。ずっとずっと、生まれたときから、多分消えるまで、きっと」 彼の口づけをやわらかに拒絶し、私は彼の頭を抱いた。濡れた頬と頬を重ね合わせ、耳元で囁く。 「なあイナフ、これ以上のしあわせなんて、きっと毒だよ」 境界線上をなまぬるい液体がじわりと満たしてゆく。内部から溢れ出すそれがやがて海になったならば、喜んで私は身を沈めるのに。あるいはすべて飲み干して、このからだと共に朽ち果てるのを待つか。 なんにせよ終わりばかりを夢想していることに気づき、私は心中で苦笑した。しあわせなひとは、死を思うことはないのだろうか。在ることこそが最上の幸福である私は、運命づけられた終焉でさえひとくくりのものとして認識しているけれど。 (きっとすべて、限りあるからこその) 月は沈む。彼も彼の人もやがて死に、私は消える。 ならば神はどうか。 どうして、と彼が口の中で呟いた。私はだまって息をつめ、聞こえないふりをして目を閉じる。彼から溢れ出した毒が、重ね合わせた皮膚から私を侵していくのをまぶたの裏で見届けながら。 エーテルで満たされた肺が軋る |