隠れるのは、いつだって私の方だった。




HIDE AND SCREAM





 やがて複数の足音は忙しげに遠ざかり、背後でほっと息をつく生ぬるい気配がした。私はと云えば未だ彼の手に口をふさがれたままで、いっこうに呼吸がままならない。おまけに戸口から飛び出しかけた尾ひれを無理やりに隠されたものだから、掴まれた部分がひりひりと痛い。魚は人の掌の熱でも火傷するのだ。
 ひとまずの危機が去って気が抜けたらしい腕を振り払い、床に手をついて大きく肩で息をすると、やっと気づいたようにあ、ごめん、と言われた。


「だって曲がったら竹中さんいきなりいるんだもん。気が動転して引っ張り込んじゃった」
「それは構わないが、隠れる場所を移動するのはルール違反じゃないのか」


 肩越しにじろ、と睨んでやる。太子は一瞬きょとと目を真ん丸にしてから、「かくれんぼじゃないよ」と片眉だけを下げて曖昧に笑った。


「わかってる。皮肉だよ」
「そうなの? わかりにくいなあもう」
「太子はもっとちゃんと仕事しなきゃ駄目だよ」


 身体を起こし、あぐらをかく太子の隣に座す。背を倒して壁にもたれ、斜めを向いて側頭部をごつんと当てる。てらりと光る異形が木目に沿って流れた。


「竹中さんは知らないから言えるんだよ、一国の摂政の大変さを」
「そりゃあまあ、そうだけど」


 その任の辛苦を知る者しか忠言できないのだとしたら、それこそこの男はやりたい放題になるだろう。周囲に咎められることもなく責務から逃げ続けるなら、さてその冠の重さは誰が背負うのか。
 社会どころか世界の理を外れた私が諌めるまでもなく、彼はいつだってギリギリのところでそれと向き合っていくのだけれど。


「イナフが帰ってきたら怒るだろうなあ……」


 ぽつり、わざとらしくこぼしてみる。ちらと目線をやってみると、太子はあからさまに知らぬふりを決め込んでいる。


「丹波に査察に行ってるんだっけ? 疲れて帰ってきて、すぐまた太子の面倒じゃあ彼も可哀相だ」
「別に頼んでないし」
「『ああもう、あんたは僕がいないとなんにもできないんですか!』」
「あ、似てる」


 笑みを含んだ一言で、ああ、わざとなんだな、と確信する。構って欲しくて気を引くような真似をする、そういうところはまるっきり子供で、多分子供の頃にできなかったことを今やっているのだと思った。彼はとても聡明で、したたかで、臆病な子供だったから。そんな彼を憐れむことはついぞなく、若干の痛々しさや不安を抱きながらもどこか眩しいものを見るように目をすがめていたあの頃の自分はやはり愚かだったのだろうと、甲斐もなく今では思うけれど。
 ごつ、と肩に重みがかかった。正体はわかっているから特に見もしないでいると、腕に沿ってずるずるとへたり込んでいく。悪戯心で不意に腕をずらしてみる。


「うわっ」
「っと」


 頭が危うく床に激突しそうになったところで、かろうじて手を差し入れて支えた。瞬間的にすくめられた肩が一呼吸ののち、ほっと緊張を解く。太子はもうなんだよー、と文句を言いつつ、そのまま私の掌を枕にして横たわった。


「太子、痛い」


 んー、と太子が生返事をする。
 私の手を下敷きにしている頭は大きくはないけれど、ずしりと重い。この中に私がいるのだ、当然か。それならばこの重みのいくらかは私自身の自重で、それに押し潰されるのはなんだか似合いのような気がして笑えた。声には出さず、腹の奥の方で押しとどめはしたが。
 太子が据わり悪げに頭を動かし、挟まれた手の甲の骨がごり、と床に擦れる。思わずいて、と声を上げると、太子は黙って頭を少し浮かせた。引き抜いた手は指の付け根の辺りが赤くなっていた。太子は今度は自分の手を頭の後ろで組み、仰向けに寝転がる。


「いつ?」
「なにが?」
「帰ってくるの」
「妹子?」
「うん」


 太子は天井を眺めながら「あさって」と答えた。そうか、と私は呟き、腰のあたりに突き出されている彼の肘を意識する。ちょうど骨と骨が当たってはいるけれど、圧迫されていないので痛くはない。痛かったらいいのにな、となんとなく思った。彼の骨が私を掻き分けて体内を蹂躙してしまえばいいのに。癒着してひとつになれたらいいなんて望みはしないから、せめて昔みたいに、どちらがどちらかわからなくなるくらい混ぜこぜになれたら。(呼び合うこと。共鳴すること。同化すること。紐の両端に繋がれた鈴は、片一方が鳴ればもう一方も鳴る。)(もういいかい)(まあだだよ)
 彼は彼で私は私だ。そんなのは当たり前だと、今ならばきっと誰かが笑うのだ。(私が欲しいのは彼の瞳に映る己ではなく、彼の目を通して見る風景なのに。)(もういいかい)(まあだだよ)



 妹子が帰ってきたらさあ、と不意に太子が言った。


「しようよ。久々に、かくれんぼ」


 私と妹子が隠れるから竹中さん鬼ね、と、寝転がったままの黒い瞳がくるんとこちらを見上げる。


「どうして、じゃんけんで決めようよ」
「だめ、だって竹中さん池に隠れるだろ」
「隠れるけど」
「ほら」


 ズルする人は鬼だよ、と太子はやけに楽しそうに言った。そうかあ、と私も笑う。



(ああ、そうかあ)



 あなたはきっともう、私を見つけられやしないのだ。(もういいかい)(もういいよ)





(song by 鬼束ちひろ)