耳元で鳴り響いた携帯のアラームに飛び起きた。手が届かないようテーブルの上に置いておいたはずなのに、なぜか開いた状態で右手に握っている。アラームを止めて画面を見たところ、どうやら深夜に届いた迷惑メールを寝ぼけて開き、そのまま力尽きて眠ってしまったらしい。寝転がったまま奈津子23歳からのメールを削除し、ふうと息をついてから身を起こす。布団を畳んで押入れに片付け(男の一人暮らしがみんな万年床だと思わないで欲しい。僕は余程慌しいとき以外はこうしてきちんとしまうし、天気のいい日にはちゃんと干している)、首をぱきぱき鳴らしながら顔を洗いに向かう。ユニットバスのドアを開くと、シャワーカーテンの向こうで魚人が眠っていた。


「……ああ、昨日拾ったんだっけ」


 そうだったそうだった、と独りごちながら蛇口をひねる。と、シャワーから冷水が飛び出し、魚人の白い顔を打った。


「うわっ!? な、冷たっ」
「わ、ごめんシャワーの方になってた……」
「ていうかここどゴボッ」
「溺れるの!? その深さで!?」


 起床早々水風呂で溺れかけている何と云うかいろいろ興味深い魚人をとりあえず助けてやる。離せば死ぬと云うくらいに思いきりしがみついてくるので、服がびしょ濡れになってしまった。どうせ洗濯するから、まあいいか。





「すまない、見苦しいところを見せた」


 床の上に座した魚人は慇懃に頭を下げた。濡れた金髪が差し込む朝日にきらめく。基本は白色人種に近い色素の薄い成人男性で、その後頭部から魚が生えていると云う創造主の悪ふざけとしか思えない造形なのだが、とにかくやたらと整った顔立ちをしている。同性(多分、見たところ)の自分でもどきりとしてしまうくらいだ、世間の女性が放ってはおかないだろう。過剰なパーツも個性……とは、いかないか。


「ええと、こちらこそ水風呂なんかに放り込んどいてすみません。乾いたらダメかなと思って……いやまさか、泳げないとは」
「いや、あれは違うんだ。寝起きでびっくりしていたし、思ったより深かっただけで」


 水位は胸までもなかったと思うのだが。まあ人は足首の深さがあれば溺れると言うし、その辺りは深く突っ込まないでおこう。
 気を失っているところを着衣のまま水風呂に入れてしまったので、当然元々着ていた服は濡れていた。僕の長袖のTシャツと新品のパンツを貸したが、手足が長いので袖が寸足らずになっている。


「順番が前後してしまったが、助けてくれてありがとう。私はフィッシュ竹中と云う」
「フィッシュ竹中さん、ですか」


 何と云うか、まんまな名前だ。いや、竹中どっから来たんだよ、って感じもするけど。
 とりあえずこちらも名乗り、軽く頭を下げる。握手を求められたので、日本人らしくなあなあで従った。さっきまで水に浸かっていた手は冷たかった。


「ええと、いろいろ疑問はあるんですけど……僕これからバイトと学校なんで、もう行かなきゃなんですけど」


 ちらりと壁の時計を見る。これからコンビニの朝バイトだ。深夜ほどではないが時給はいいし、大学に行く前に昼食を調達できるのはなかなか有り難い。
 竹中さん(と呼ぶことにする。フィッシュさん、より名前らしい)はそうか、と頷き、Tシャツの袖を少し気にしてから、口を開いた。


「迷惑ついでに、服が乾くまでいさせてもらってもいいだろうか」
「それは構いませんけど……失礼なこと訊いてたらごめんなさい、行くところあるんですか?」
「どこへだって行けるさ、この足があれば」
「いや、そういうことでなくて」


 やりにくい。本人は至って大真面目なようだが、ペースが掴めない。
 そうこうしているうちに、いよいよ時間が差し迫ってくる。目の前の男に一言断って腰を上げ、ばたばたと着替えと荷物の準備を済ませた。竹中さんは座ったまま、じっとこちらを見ている。
 携帯をポケットに入れ、思い立ってメタルラックの上段のレターケースを開けた。部屋の合鍵(悲しいかな今のところ渡す相手はいない)を取り出し、テーブルの上に置く。


「もし出るなら鍵かけてポストに入れといてください。6時過ぎには帰るんで、いてもらっても全然大丈夫ですし。お腹すいたら適当にあるもの食べていいんで」
「わかった。何から何まですまない」


 ショルダーバッグを背負い、それじゃ行ってきます、と声をかける。なんだか変な感じだ。行ってきます、なんて久しぶりに口にした気がする。
 ほんの少しこそばゆいような気分で靴を履き、ドアノブに手をかけると、背後からとんとんと肩を叩かれた。ん、と振り返る。と、



「行ってらっしゃい」



 額に濡れ髪、唇に冷たい感触。
 訳がわからず呆然としていると、平然と顔を遠ざけた竹中さんが微笑んでちいさく手を振った。つられてへろへろと手を振り返し、ドアに倒れ込むように外に出る。足をもつれさせ2、3歩よろめくと、手からすっぽ抜けたドアがばたんと音を立てて閉まった。続いて、ガチャリと御丁寧に中から鍵をかける音。


「な、なん……」


 ぱくぱくと口を動かすが、言葉にならない。
 しばし呆然とドアを眺め、我に返って駆け足にマンションの階段を下りた。自転車のワイヤー錠を外し、前カゴに荷物を突っ込んでバイト先へ急ぐ。



 謎だ。謎すぎる。見た目も普通じゃないけれど、初対面の人間、しかも同性(多分)に当然のように「行ってらっしゃいのチュー」とか、絶対普通じゃない。今までどんな環境で生活してたんだ、あの人。
 これはちょっと、どうにも看過できない事態だ。多分きっと、僕の人生における一大事だ。
 無意識に彼が触れた唇を指でなぞり、願わくば帰るまで部屋にいてくれますようにと、晴天を突き抜けた頭上の神様に祈りながら自転車を飛ばした。





ド ラ ス テ ィ カ !