自宅に大王を招くのは初めてだった。部屋はきちんと片付いていたっけ、見られて困るようなものはなかっただろうかとか、夕食は何を出そう、嫌いなものはないだろうか、口に合うだろうかとか、幻滅されたらどうしようといろいろ気にかけていたけれど、結果としてそれらは完全な杞憂に終わった。大王は僕以上にそわそわと落ち着きがなく、食事中も上の空で(食べる分にはガツガツと残さず食べてはくれた)、食後に対戦したマリオカートも僕が圧勝した(大王は30回くらいコースアウトしてジュゲムに引き上げられていた)。夜も更け、客人に続いて入浴した僕が風呂から上がると、ベッドで今か今かと待ち構えていた大王に今度は僕がおいしく頂かれてしまいましたと、そういう訳だ。



「いやあもう、我慢するの大変だったんだって。もうドア開けた瞬間発情したもんね俺」
「マジキモいウザい死んで欲しい」


 枕に顔を埋め、脱力しながら罵倒する。散々泣かされた後のかすれた声じゃ、全然堪えやしないなんてわかっているけれど。
 案の定、大王はニヤニヤしながら(見なくてもわかる)僕の頭を撫でたくった。


「かーわいいなー、もう」
「うるさい。喉渇いた、水」
「はいはい」


 俺は君の上司で今日はお客さんだけど、優しい恋人でもあるので持ってきますよーと腹立たしい弁を述べながら大王が薄暗い室内をぺたぺたと歩いて台所へ向かう。不慣れな場所だと云うのに、足取りに迷いはない。随分と夜目の利く男だ、と何となく感心する。


「はい、どうぞ」
「……どうも」


 肘をついて少し身体を起こし、グラスを受け取る。冷たい水は喉を滑り落ち、ゆるりと身体中に染み渡った。
 大王はベッドを軋ませながら腰掛け、自分もごくごくと喉を鳴らして水を飲んだ。裸の背が薄闇に白く浮き上がって見える。無防備なそこに手を伸ばし、爪の先でかり、と引っ掻いた。


「いっつ! 何? 何すんの鬼男くん」
「ちょっと引っ掻きたくなって」
「背中引っ掻くならせめて最中にしてよ……」


 すいません、と棒読みで謝りながら、薄らとにじんだ血を指の腹で拭った。ぬるりとした赤に身体の奥がほんの少しだけざわめき、指先に付着したそれを無意識に舌で舐め取る。



「イイ顔」



 いつの間にかこちらを向いていた大王が、口の中に人差し指を滑り込ませた。噛んでいいよ、と言うので、人間のそれよりも尖った犬歯でぷちと皮膚を破る。生ぬるい血の味がじわりと咥内に広がった。
 この高揚は鬼の本能ゆえか。それとも、この男の体液だからか。
 しばらく恍惚と舌を蠢かせ、血が止まりかけたところでようやく口を離した。名残惜しいが、これ以上続けていると喰いちぎりたくなってしまう。そうしたところでこの男はきっと、僕以上に獣じみた目で笑うだけなのだろうけれど。
 枕元でグラスが倒れ、ほんの少しだけ残っていた水がシーツを濡らしていた。放っておけば朝には乾くだろうし、それ以前にこのシーツは朝になれば洗濯機行きだ。湿った布地を指先でぺとぺと叩いていると、気付いた大王がグラスをひょいと取り上げ、それから軽くキスを落とした。


「ついでですか」
「んー? こっちがついでだよ」


 カチ、と両手に持ったグラスをぶつけ合わせる。すねたつもりはないのになだめるように言われ、ひどく気恥ずかしかった。大王はグラス二つを少し離れた床に置き、僕の隣に倒れ込んだ。


「大王、時計見えますか?」
「ん? えっと、2時ちょっと前」


 もう5時間寝られないか、と呟くと、「え、鬼男くんそんな早起きなの? 年寄り?」と大王が驚いたように尋ねてくる。とりあえず腰の辺りに膝蹴りを入れておいた。


「朝ごはんとお弁当作って食べて洗濯してってやってたら全然忙しいですよ。6時半に目覚まし鳴るんで起きてくださいね」
「ええーっ無理だってそんなん。俺8時半に起こしてね」
「嫌です。ここ僕の家なんで、うちのルールに従ってください」
「えー……何と云う暴君……」


 ぶつぶつ言いながら、大王は腕を伸ばして僕の頭を抱き込む。


「ちょ、寝づらいんですけど」
「いいじゃんいいじゃん。俺はこれで安眠」


 ちゅ、と角に口づけられ、びくりと背が震える。神経が剥き出しになっているようなものだから、不用意に触らないで欲しいといつも言っているのに。これでは余計に眠れやしない。
 下手に身じろぐと墓穴を掘りそうなので、息を詰めてじっと耐えた。大王はくすくすと笑っている。


「この野郎、人で遊びやがって……」
「だって面白いんだもん」
「絶対殺す」
「あと可愛い」
「絶対明日殺す」
「はいはい、じゃあ最後の夜くらい好きにさせてね」


 いつも好き勝手してるじゃないか、と言おうと思ったけれど、不毛なのでやめた。窮屈な体勢のまま、もう眠ってやろうと目を閉じる。大王は今度はふざけた真似をせず、とんとんと優しく背を叩いた。


「子供扱い……」
「俺から見たら子供だよ」
「ロリコンかよ」
「ひっど」


 言いながら、もう一方の手がそっと頭を撫でた。触れられる心地良さと人肌のぬくもりで眠気が襲ってくる。回らない口でおやすみなさい、と呟くと、おやすみ、と囁きが返った。とん、とん、と心臓の鼓動に寄り添うような振動。もう頭が半分寝ているようで、ぼんやりと幼い日に見た母の姿が浮かんだ。
 完全に意識を手放す直前、背を叩く手が止まり代わりに遠慮がちに抱きしめられた。肩に添えられた手が震えているような気がするけれど、身体の自由がきかず何も反応できない。鬼男くん、と消え入りそうな声で名を呼ばれる。




「ずっといっしょにいてね」




 それはあまりにも微かで、途方もない祈りの言葉で。
 聞かないふりも守れない約束もできそうになかったから、僕は自ら眠りの海へと泥んでいった。






終わりのない幸福など不幸だと彼は言った