薄 氷
(pray in vain 5 years later.) 何があったのかと言えば、特に何もなかったのだと言わざるを得ない。 無論、五年という歳月は成長し老いてゆく生き物である僕らに等しく降り積もっているし(約一名まったく外見の変わらない人もいるけれど)、その間にはそれなりに様々な出来事があった。僕個人に関して言えば、まあ順調に出世したし、大陸へももう一度渡ってまた戻ってきたし、その道行きやそれとはまた関係のないところで二、三度死にかけたりもした。太子は太子で二度までも隋についてきたし、真面目なところでもふざけたところでも何度となく死にかけたし、たまには(本当に、年に一回か二回は)きちんと政を行っていくつか法律や制度も作った。竹中さんは……まああの人は変わりなく、相変わらず毎日変で毎日綺麗だ。何しろ年を取らないので、後世風に言えばアラサーと呼ばれる年齢にさしかかった僕よりも見た目が若くなってきた感は否めない。ちなみに太子は五年前からおっさんだったのでさして変わらないが、確実にもち肌ではなくなった。 何もなかったなどと言うわけはなく、五年間の月日は確かに存在した。存在したけれど、五年後のこの現状を見るに、やはり何もなかったのだと言わざるを得ない。 「うわっ! あーもう、暴れるなっての! ちょっとちゃんと押さえててくださいよ太子」 「押さえてるよ、押さえてるけどさー、明らかに私より力強いこいつ」 「あきらめんな! おまえの犬だろ!」 訂正。明らかなる変化、あった。 五年前太子が拾った子犬(命名:ソロモン)、頑張れば僕でも背中に乗れるくらい大きくなりました。とは言え、突然いなくなっては気づいたら太子がまた似たような犬を連れている、ということが何度かあったので、本当にあの子犬なのかは定かではない。 「んー……」 「? 竹中さんどうしたの」 「泡が目に入った……」 「あーもうソロモン! バカ! 竹中さん早く流して、赤くなっちゃいますよ」 目をぎゅっとつぶったままいやいやと首を振り、「風呂の湯が汚れる」と言うので、僕は苦笑いして傍らにあった洗面器に手を伸ばした。片手で湯を汲んで浴槽の縁に乗せてやると、竹中さんは洗面器に直接顔をつけてぱちぱちとまばたきして目を洗う。 「大丈夫ですか?」 「んー……ちょっとゴロゴロするけど、多分平気」 「ソロモン、おまえちゃんと竹中さんに謝んな」 「わん」 「いいよ、怒ってない」 「今のわかったんですか?」 なんとなくね、と笑う竹中さん。本当に謝ったのか、と僕は犬の尻を軽く叩く。犬はまた大きく身を震わせそうになって、慌てて太子と二人がかりで押さえ込んだ。袖(は僕のにはないが)と裾をまくり上げたジャージは、既に二人ともびしょ濡れだ。 竹中さんは洗い場の大騒ぎを横目に一人悠々と風呂に浸かって、優雅に濡れ髪をかき上げている。鱗もしっとりと濡れて輝き、いかにも生き生きした様子だ。 「泡立たなくなってきた。一回流すか」 「ですね。竹中さん洗面器」 「はいはい」 洗面器で犬の体に湯をかけ、洗い流す。少しだけ黒くなった泡が排水口へ吸い込まれてゆく。 何度も繰り返してすっかり泡を落としてしまうと、異国の王の名をつけられた犬は毛並みがぺったりとしてひどく貧相な姿になった。 「おまえ……そんなみすぼらしい犬だったのか……」 「ペットは飼い主に似るって本当ですね」 「ひどい! 竹中さんこいつひどい!」 「本当によく似ているな」 「味方いねえ!」 「風呂場で大声出すなよ響くから」 壁を殴る太子を尻目にもう一度石鹸を手に取り、犬の体にこすりつけていく。両手でわしゃわしゃと泡を立てるのは結構楽しい。予想外に痛かったのか無言で手をさすっている太子に石鹸を差し出すと、仏頂面で受け取った。 犬は全身を撫でたくるように洗われるのが気持ちいいらしく、隙あらば頭の方にいる太子の顔を舐めようとしている。「こら、ちょ、もう」と逃げ惑う太子をほほえましく眺めていた竹中さんが、浴槽から身を乗り出して犬の頭を撫でた。犬はうっとりと目を閉じて大人しくなった。 「竹中さん、のぼせません?」 「まだ平気だよ。犬を洗い終わったら二人も入るといい」 「お、みんなでお風呂久しぶりだな! 待ってろ、私アヒルちゃん持ってくる」 「前から言おうと思ってたんですけど、太子のあのおもちゃアヒルじゃなくてアイガモですよ多分」 「マ……マジで?」 何もなかった五年がやがて十年になり、二十年になり、いつかは百年に――は、ならない。それは決してありえないのだ。百年に満たない期限の中で僕らは、ゆるやかに終わっていく。もしかしたらいつか唐突に劇的な幕引きが訪れるかも知れないけれど、今の僕らにはそんなこと想像もつかない。今はただゆっくりと、ひそやかに、確実に、一呼吸ごとに、終わりへと向かう。誰も逃れることのできない、時間という呪縛だ。 すべての恋には終わりが見えている。誰だって永遠には生きないからだ。でもそれを知るのは恋を終えた者か、さもなくば既に終わり始めた恋をしている者だけで。 危うげに踏んだ氷が、じわじわと足の下で溶けてゆく。落ちるのは最初からわかっていた。できることならそれがずっと先であればいいと、そう願っているだけだ。 つないだ両手に力を込めて、今はただ、悪あがきのような祈りを。 |