「逃げようか」




 中禅寺はやっぱりと云うかなんと云うか、えらく嫌そうな顔をした。







  c a c h e t







 一度上げた目を再び活字に戻し、なんだってあんたはいつもそう唐突なんだ、と吐き捨てる。


「そりゃあ唐突だよ。唐突に思ったんだからな」
「威張ることじゃないでしょうに」


 眉を寄せたまま頁を繰る。
 その気難しい表情を剥がせば、驚くほど若い顔立ちをしているのに。


「大体、何から逃げるんです。あんたはどうだか知らないが、僕は逃げなきゃならないようなことはしちゃいない」
「してるだろ」
「何を」
「あんな綺麗な奥さんがいるのに、間男引き込んで」
「あんたはただの友人だ」
「おまえはただの友人に抱かれるのか?」
「ッ!」


 きつい視線が飛ぶ。口元だけで笑んで、それをやり過ごす。
 咎めるように恥じ入るようにもう一度睨めつけてから、中禅寺は目をそらして短いため息をついた。
 かち合わない双眸をこっそり見つめる。自分とは異質の漆黒。鼈甲と評されるこの瞳と比較するならば、彼のものはさしずめ黒曜石か。


「……あんたは勝手だ」


 左斜め下の何もない空間に目線を固定したまま、中禅寺は呻くように云った。


「いつでも好き勝手する。できなければ拗ねる。いい加減大人になってくれ」
「そんなつまらないものは飛び越した。神は好き勝手するのが仕事だ!」
「話にならん」


 眉間に刻まれた皺がよりいっそう深くなる。この殺伐とした雰囲気だけで十分人が殺せると思う。
 凶悪な面相の中禅寺を見るのをやめて、ばたりと畳に寝転んだ。足も伸ばして空間を大きく使う。頭の後ろで手を組んで天井を眺めると、ところどころに浮かんでいるシミが孤島のように見えた。木目の海にひっそりと紛れている。



 逃げよう、と云ったのは確かに思いつきだ。しかし気まぐれではない。同性どうし、しかも片一方は妻帯者と云う世間で云うところの不埒な関係を続けている以上、自分とて少しも思うところがないわけではないのだ。
 背徳と恋慕、どこか不安を抱えたまま過ぎてゆく日常は、それでもひどく心地よい。できることならば生温い羊水のようなそれを堰き止めて、永久にふたりたゆたっていたいと願ってしまうほどに。


(そんなのは無理だ)


 わかっている。死がふたりを別つまで、などと云うロマンチシズムでも、人の感情など移ろうものだ、などと云うシニシズムでもなく、ただ単純に予感として、いつかはこの日常も壊れるのだと理解している。淡々とした絶望、ゆえに不可避。



 だから云った。「逃げようか」と。



 誰も知らない場所にふたりきりで行ってしまえたならば、いつかは溢れ出すはずのこの羊水の肌触りを存分に純粋に楽しむこともできるだろう。幸福な冗長な日々を長引かせることもできるかもしれない。自分たちならば、その程度のことはたやすくなし得るのだ。




「中禅寺」



 意味もなく名を呼び、目の上で両腕を重ねた。天井の海が消える。
 少し置いて、困ったような声音で中禅寺が云った。


「一体全体どうしたんだ今日は。えらく刹那的じゃないか」


 あんたらしくもない。そう続ける。


「聡いな、おまえは」
「……榎さん」
「敵わないよ、本当に」



 中禅寺だって、同じようなことを考えもするのだろう。しかし、彼がその道を選ぶことは絶対にない。実行し完遂するだけの能力があるからこそ、なおさらだ。






 中禅寺はこの世界を捨てない。






 妻や友人や仕事のあるこの世界を、そしてその中に在る自身を、彼は背負いつづけるのだろう。それは苦痛なのだろうか。盲目的に想いを追えない、目を見開いてしか生きられない彼の、自らに課した使命なのだろうか。



「いいんですよ」


 中禅寺が静かに云った。ばたん、と、分厚い本を閉じる音。


「僕はここにいたい。何もかもあって、ありすぎて悲しいけれど、でも、だから」






「あんたもここにいてくれたらいいと、そう思う」






 ああ、それがおまえの覚悟なのか。





 腕を下ろし、肘をついて上半身を起こす。
 懐から煙草を取り出す中禅寺はまだ不機嫌そうだが、雰囲気は先程よりは幾分和らいでいるように思える。


「そうかそうか、僕がいればそれでいいか」
「その都合のいい耳をどうにかしてくれないか」
「わははは照れるなってば。よし、こっち来い中禅寺」


 抱きしめさせろ、と云うと、中禅寺は苦虫を三十匹くらい噛みつぶしたような表情を浮かべた。
 おかまいなしに近づき、後ろから抱きすくめてやる。腕の中で中禅寺は身じろぎもせず、黙って煙草を燻らせた。





 僕はと云えば中禅寺の黒い髪に顔を埋めて、いちばん美しい終わり方を夢想していたのだった。