さびしくなあれ





選択を委ねられた手はいつだって迷いのない振りをして、それでも本当はいつだって迷っている。最善、危機回避、畏怖、矮小な慄きがぐるぐる廻る脳内のずっと奥に居るまだ胎児の己は、半永久的な眠りの中で子宮に置き忘れた残夢を手繰り続ける。
 ――自分は許されるのか、と。




 夜半過ぎにふらりと訪れた榎木津は、迷子になった子供のような顔をしていた。窓の外、庇と銀杏の木の陰で髪から雨水を滴らせる上級生を室内に引っ張り込むのには――何せ此方は痩せぎすの非力であり、相手は細身とは雖も中中の長身であるから――酷く難儀をした。
 取り敢えず靴と上着を脱がせ、手拭いでがしがしと頭を拭いてやり乍ら、棘のある口調で問う。


「どうかしましたか、先輩。こんな非常識な時間に、非常識な所から」
「開いてなかったんだ、表は」


 榎木津は何処かぼんやりと答える。寮母はとうに床に就いている時間であるし、そもそも今は休暇中なのだから当然だろう。進学を控え寸暇を惜しむ上級生は何人か残っているらしいが、同級生ばかりのこの六人部屋に居るのは帰る郷里の無い中禅寺だけだ。と云うか、この男は寮生ではない筈だ。また家を抜け出してきたのか、と眉を顰める。


「帰ってない。落第横丁をうろうろしてたんだ」
「尚の事感心しませんね」
「別にしなくていいよ」


 珍しく俯き加減で微かに笑う榎木津の、乱雑に拭いた所為ですっかり絡まってしまった猫ッ毛を手櫛で梳かしてやる。普段は反り返る位に颯爽と胸を張っているから遠い頭が、腕を伸ばすと丁度良い高さにあった。色素の薄い髪は、読書灯の弱い光の中でさえ浮いて見える。
 雨だ、と榎木津が呟いた。


「雨がなあ、酷いんだ。中禅寺」
「知っていますよ。その中を来たからあんたはこんな濡れ鼠になったんでしょう。何だって態態」
「だってさ、雨だぞ。夜だぞ。ざあざあ煩瑣いし、暗いし、湿っぽいし」


 一人でなんか居られるか――と云い、榎木津は中禅寺の肩に顔を埋めた。冷え切った額に、ぞくりと肌が粟立つ。




「なあ、お前ならわかるよな。なあ」




 中禅寺、と榎木津が耳元で囁く。艶かしさの欠片もないその掠れた声は、がらんとした寒々しい部屋に誂えたように響いた。
 口を引き結び眉根を寄せた中禅寺は、喉の動きだけでちいさく嘆息する。どうしてこの男は、そして己はこうなのだろう。どうしてこんなところで、こんな惰弱で遣る方ない部分で引き合ってしまうのだろう。

 寝付けなかったのだ。雨音や匂いや沈む空気は、漠然とした寂寥を煽る。ましてやそんな状態で迎える夜明けを思えば尚更堪らなくて、布団の中で何度も寝返りを打っては羊を数え、無為に時間を過ごす位ならと諦めて本を開いた。頼りない明かりの下で頭に入らない文字列を追い乍ら、ひょっとしたら待っていたのかも知れない。必ずしもそれは彼でない筈で、それでも彼以外には有り得なかった。
 中禅寺はみっともなく縋り付いてしまいそうな手をぐっと握り締め、目を伏せて冷たい髪に少しだけ頬を寄せた。


「雨は厭だな。嫌いだ」
「僕もです」
「こんな厭な気持ちで、お前を思うのは厭だなあ――」


 頭の中を贖罪の言葉と呪詛の文句が巡る。榎木津の形の良い頭蓋の最深部に、半透明の赤子が蹲っているのが見える気がした。生まれてしまったひとりが、出会ってしまったふたりが、決して共有し得ない心情を擦り寄せ合う様はいっそ滑稽で、でも矢っ張り寂しくて。




 好きだよ中禅寺、と零すその吐息だけはやけに生温くて、少しだけほっとした。