天
 梯 子
    
   
     け   
     る
    






「人の家の座敷でそうぶすったれた顔をするのは止めてくれないか」


 とうとう中禅寺が顔を上げて注意すると、座卓に頬杖をついた榎木津はむう、と更に頬を膨らませた。


「大体、そう云う表情は子供や若い娘がやるから可愛げもあると云うものだ。いい歳の男がするものじゃないよ」
「煩瑣い馬鹿本屋。お前がやったらそりゃあ可愛くないし僕は指差して笑うが、僕ならどんな顔をしようが許されるのだ。何なら銅像にしてお前のとこの襤褸神社の御神体にしてもいいぞッ」
「謹んで遠慮しておこう」


 冷たくあしらい、中禅寺は煙草を咥える。膨れっ面の客人が無言でずいと手を出すのに露骨に苦い顔をしてから、煙草一本と燐寸箱を開いた掌に載せてやった。
 榎木津は火を点けて深呼吸するように思いっ切り吸って吐いて、それから恨みがましい目で中禅寺を見た。


「今日は上野に人鳥(ペンギン)を見に行くって云っただろ」
「僕はそんなこと約束しちゃいない。榎さんが勝手に云っていただけじゃないか」
「僕が行くって云ったら行くの」
「だから、今日は千鶴子が居ないから家を空ける訳にはいかんのだと云ったでしょうに。どうしても今日行きたいのなら、あんたの云う所の下僕を連れて行ったらどうだ」
「お前とじゃなきゃ厭だ」


 中禅寺は深深とした溜め息と共に紫煙を吐き出した。先刻から堂堂巡りである。
 榎木津が来訪したのは外出する中禅寺の妻と入れ替わり、午前中のことである。これは世の勤め人を鼻で笑うかの如き奔放な生活リズムをお持ち遊ばされている榎木津礼二郎探偵閣下に於かれては、まず以て有り得ないことだ。いっそ椿事に仰天した空が季節外れの雪でも降らせてくれれば良かったもののそんなことは当然なく、正午を幾らか廻った五月晴れの空は快哉と行楽日和を謳い上げている。


「なーあ、中禅寺ィ。ペーンーギーンー」


 じたばたと身体を揺らす様は丸っきり子供――図体のでかさと咥え煙草に目を瞑れば、であるが――のそれで、こんな好天に屋内でじっとなんかしていられない、と全身で表現している。
 中禅寺は再度溜め息を吐き、面倒臭そうに口を開いた。


「そう人鳥人鳥と騒ぐがね。あんた、人鳥がどんな生き物か知っていますか」
「知ってるよ。黒と白だろ」
「大変大雑把な認識で宜しいことだ。では、生態についてはどうだ」
「セイタイ」


 榎木津は九官鳥のような声音で云った。卓に顎を乗せた状態から半身を起こし、煙草を灰皿に押し付ける。


「ぺたぺた歩くんだろう。飛べないから」
「そう、人鳥は飛べない鳥だ。その代わりに泳ぎが達者なことから、嘗ては羽の生えた魚と思われたりもした」
「それはお前、飛魚じゃないか」


 僕はその昔物凄い飛ぶ飛魚を見たことがあるんだ、とはしゃぐ榎木津に、その話は今はいいよと中禅寺がこれ以上ない程面倒臭そうに云い放った。


「今でこそ飛べない人鳥だが、昔は飛べた。まだ確立された学説ではないが、骨格や小脳に空を飛んでいた名残がある」
「あるのか。じゃあ飛べるのか」
「飛べないよ。名残があるだけで、現在は完全に退化しているから。あの詰まった骨と脂肪の塊を飛ばそうと思ったら、プロペラでも付けないと無理だな」
「何だ、つまらないの」


 榎木津は弛緩した声を上げ、ばたんと後ろに倒れて寝転がった。
 やっと大人しくなった大きな子供に息を吐き、中禅寺は短くなった煙草を捻り潰した。開きっ放しだった本に再び目を落とし、頁を捲る。
 頬に畳の跡を付け、榎木津はううん――と唸る。


「どうして飛ぶのを止めちゃったんだろうなあ。ぺたぺた歩いたり魚獲ったりするより、ずうっと面白いと思うけどなあ――」
「榎さんだったら飛ぶのを選ぶかい」
「飛ぶよ。飛ぶし、走るし泳ぐ」


 それじゃあ滅茶苦茶だ――と中禅寺が苦笑した。
 人類は何千年にも渡る空への憧れを遂に実現した。有人宇宙飛行を実現する日もそう遠くはないだろう。
 しかし人類は、未だ最も深い海を知らない。自らの踏む地表の下――即ち地殻・マントル・核の詳細も未だ不明である。無鉄砲に空を宇宙を目指すより先に、知的好奇心と云う傲慢さの下にこの星を遍く蹂躙し解明すべきだ、と云う思考に至らないのは余程不思議なことではないか。



「僕は、別に飛ぶことはないと思うのだがなあ」



 だからもしあんたが飛ぶのなら僕は置いて行ってくれて構わないよ――と中禅寺は独り言のように云った。
 ごろんと寝返りを打った榎木津が、ええ、と不満の声を上げる。


「僕が行くならお前も行くだろ」
「どうして僕とあんたがセットなんだ」
「だって、一緒じゃなきゃ厭だ――あ」


 何かに思い当たったような声を上げ、榎木津は弾みを付けて起き上がった。片膝を立て、平然と読書を続行する中禅寺の顔をやや下から覗き込み、快闊に笑んだ。




 「じゃあ、僕が空に行ったら梯子を架けてあげるから、お前はそれを昇って僕の所までおいで」




 そうしたら飛ばなくても来られるな――と屈託ない表情で云う。
 中禅寺は思わず顔を上げて目を瞬かせ、それからふ、と呆れたように破顔した。あ、その顔可愛い――と榎木津が嬉しそうに指を差すと、慌ててぺしりと己の頬を叩いて口をへの字に曲げた。


「何だ、可愛かったのに」
「これっぽっちも嬉しくないんだが、どうしたものかな」


 榎木津は一際高らかに笑い声を上げると不意に真顔になり、腹が減ったと云った。主ははいはいと腰を上げ、妻が用意しておいてくれた食事を取りに台所へ向かった。
 次の休みには飛べない鳥を見に行くのもいいかも知れない――などと、思い乍ら。