「お前は酷いね」 「そうですね」 「人でなし」 「ええ」 「もう勝手にしろ」 あんたに云われなくともそうするさ、と煙に紛れさせて吐き出すと、どん、と背に衝撃が走った。 「痛い」 「僕の方が痛いのだ」 「知らないよ。重いから退けてくれ」 榎木津は黙ったまま、嫌嫌と幼子のように背に額を擦り付けた。何枚も布を隔てては、感触も体温も伝わってはこない。ならば感情も伝わりはしないのかと思えばそんなことはなくて、重要なのは物理的な接触云々ではなく相手方を洞察する意思があるか否かである。結果を述べるならば、今自分にその意思はない。と云うよりは、敢えて閉じている。背後の男とてどうせ、心中を吐露しているように見せかけ乍らその実投げ掛ける言葉で距離を測って遊んでいるだけなのだ。 「云えば良かったのかな」 ふう、と溜息を吐く。緩緩と紫煙の立ち昇る紙巻はもう随分と短い。 「先にあんたにお伺いを立てたら良かったのか。自分はこうこうこうするつもりだが構いませんかと、一一訊いたら満足だったのか」 「そんな訳ないだろ」 「なら、どうしようもないじゃないか」 冷たい、と榎木津が呟いた。今更だろうと自分は笑ってみせた。これでいいだろう。酷いのはどっちだ。 下宿の狭い窓の、その硝子越しに月を見る。窓は汚れていて拭いても落ちないから、何時だって空は曇っている。構いはしない。月や星や夕焼けが見たければ外に行く。今は夜空などどうでもいいから、視線を落とした。ぱら、と灰も落ちた。 「お前は何だっていつもそうなんだ」 「僕は昔からずっとこうさ。少なくとも、あんたの知る僕は最初からこうだろう」 「そうか。そうだな」 「もういいだろう、榎さん」 灰皿を引き寄せ、煙草を押し潰す。畳の上に散った先刻の灰を指先で摘み取ると、爪の間に入って黒く汚れた。 「あんたが何と云おうと僕の考えは変わらない」 そうでなければあんたは僕を見限るんだろう――とは口に出さなかった。それは決意であり自らに掛ける呪いであり、至極当然のことであり、同時に嘘でもあった。狐が狸に化け、狸が狐に化けるような下らない堂堂巡り。巡るのは環だ。環は欠けてはならない。 云ってやりたい言葉なら幾らでもあった。本心にせよ戯れにせよ、それを云ってしまえばどうなるのかは大概わかっていて、それでもぽつりと漏らして全てを打ち砕いてしまえればそれはどんな気分だろうと、常常空想はした。多分彼もそうなのだ。台詞はいつの間にか決められていて、それ以外の言葉を発すれば芝居は成立しなくなる。自らが劇中の人物だと理解していて、それでも舞台をぶち壊してやりたいと、そんな衝動に駆られるのも道理なのだろう。客席はなく自分達とその足元以外全ては奈落の闇と知っているから、決してそれを実行することはないけれど。 背に掛けられた重みがふと消えた。刹那、後ろから伸びてきた腕に抱き竦められる。 「お前は酷いよ。酷い男だ」 「それはもう聞いた」 「僕は――」 声は途切れ、肩口に顔が埋められた。栗色の髪がさらり、頬を掠める。聞き逃しそうに小さな、それでいて妙にとぼけた声で、「次は何て云ったらいいのかな」と榎木津は呟いた。胸の奥にわだかまっていた空気を吐き出し、一息で嘲笑する。 悲しい振りは愉しかったかと、そのとき訊いてやれば良かったのだ。 かなしみごっこ (出征前だか結婚前だか) |