あのひとは善良そうな顔をして、すぐにばれるような嘘をしょっちゅうついていた。怒られるとわかっているようなことを、懲りずに何度でもやった。叩けば泣くし、蹴ればわめくし、ふらふら迷子になってはあちこちに迷惑をかけた。駄目な大人だった。


 それでもいつだって、まっすぐにどこか遠くを見ていた。





 師が死んでから何年かが経って、自分も相応に歳を重ねて、でもいつまでたってもあのひとに届く気はしない。句を書き溜めた懐紙は文机のまわりに乱雑に積まれているけれど、たいしたものなどないのは自分が一番よくわかっている。捨てられはしないから、時折気まぐれに読み返す。鼻で笑って、またその辺に放って、終わり。日々延々、そのくりかえし。

 懐古趣味はない。過去はいつだって美しいけれど、人間には所詮今しかないと心得ている。今を生きぬ者に未来はないし、振り返るばかりでは来た道を踏みにじるのと同じことだ。
 なのに思い返すのは、あの頃のことばかりで。



 世界の終わるような朝焼けを見た。燃え落ちるような夕焼けを見た。
 果てなどないと知らしめる海、すべての色を還す空、草木を獣を人を生かす大地。
 足跡のない雪路を我先にと駆ける背や、道端の蝉の死骸に手を合わせる横顔や。
 共にした日々はあまりに短く、そして今に至るまで永く続く旅。そんなおかしな感覚。



(芭蕉さん、僕は)
(僕はあなたになりたかった)
(でもそんなのは無理で)
(わかっていたから)



 縁側に立つと、降りはじめた通り雨が風にあおられて頬を叩いた。雨戸を閉めようかとも思うが、空を見れば雲の動きは早く、やり過ごすこともできそうである。
 外に背を向けて座敷を見やると、吹き込んだ風で駄句が散るのが見えた。似合いだと、思った。



 僕にはあのひとの見ているものなど見えなかったし追いつくことなど叶わないしましてやあのひとになどなれないし、それならあなたが欲しいんですなんて云うことも結局はできなかったのだ。





jive!(曽芭)