その感情はきっと、失望に近かった。



 有り得なかった。どこぞの古本屋先生が「『有り得ない』などと云うことは有り得ないのだよ」などと難癖をつけそうだけれど、だって有り得なかった。そんなこと。
 逆光に縁取られた麗人は嘘のように静かで無表情で、魔法が解けてただの人形に戻ってしまったんじゃないか、などとくだらないことを考えてしまう。見つめていると魂を吸い取られるから目を逸らさなくては、ああ、でも。逸らせない。見てはいけないのに。彼の人が見ているから、視ているから。
 すう、と右手が掲げられる。自分は西陽を背負って翳っている端整な顔に釘付けになったままだから、その手の軌跡は視認できないけれど、その終着点を瞬時に理解してぞくりとした。粟立つこの背に、きっと、今に、ああほら――




 触れた!




 身体は跳ねなかった。驚きはなかったのだ。予測はしていた。その上で、そんなはずはない、そうでなければいいと意識の外に追いやっていたのだから。
 強い力で、ただ乱暴にではなく、肩口に抱き寄せられる。自分の鼻梁が彼の人の鎖骨に押し付けられている。鼓動? そんなものわからない。自分が今しなければならないのは、呼吸の仕方を思い出すことだ。


「……っ」


 苦しい。喉の奥の方に、なにか大きな塊が詰まっているような気がする。
 窓の向こうで日が落ちてゆく、その刹那が億年にも感ぜられる。橙に蕩けてゆく神保町に酔いそうになって、眉をひそめた。窓を背にしている彼の人もこの情景を視るのだろう。それはこんな風に、同じように眩暈を伴うのだろうか。
 いよいよ気が遠くなりかけた頃、ねじが切れたように微動だにしなかった彼の人の指先が、ぴくりと動いた。指を差し入れている髪を弄ぶような仕草を見せ、次の瞬間くるりと身を翻す。大股で探偵の私室の扉へと向かい、躊躇なくドアノブを掴んで引き開ける。これは決定づけられた動作だ、と思う。


「え」
「寝るッ!」


 のきづさん、を自分が云う前に、彼の人は高らかに宣言した。


「僕は眠いから寝る。神が寝るから夜になるぞ。カマはさっさと帰らないと月夜にカマを掘られてさようならァ、だ!」


 意味のわからないことを連ねて呵呵と笑い、こちらを振り向かないままばたんと後ろ手に扉を閉めてしまう。寝台に飛び込んだような音が微かに聞こえた。本当に寝るのだろう。
 扉の向こうが静かなのを確認して、ソファに腰を下ろした。ぼんやりと自分の膝を見つめる。


 触れたいと願うことは詮のないことで、それは多分許された。触れられたいと願うのは少し違うけれど、それは背徳のようだけれど、それでもきっと構わなかった。そんなのは、劣情と名づけて自嘲すれば良いことだった。



 ただ、触れられるのは。



 それは有り得ない。あってはならない。そんなことが起こり得る世界は正しくない。そう、過ちを犯したのは彼の人でも自分でもなく、きっと世界のほうなのだ。
 世界が。自分たちを取り巻く世界が、裏切ったのだ。


 シャツを掴む。背に髪に置かれた掌の感触を思い出し、奥歯を噛み締めた。





めいろ(榎益)