彼を殴った拳がひどく痛んだ。打撃の瞬間には確かに骨と骨のぶつかり合う感触がして、数ミリの肉など緩衝材にもならないと知る。
 彼は数歩よろめき、がくりと膝を折ってへたり込む。漆黒の双眸はふらふらと彷徨っている。こめかみを強く打ったのだ、少々脳が揺れたのだろう。視点が定まらぬのも無理はない。
 私は首を傾けて俯いている彼の前にしゃがんだ。手刀を作り、えい、と軽く脳天に振り下ろしてみる。頭は無抵抗にがくん、と下りた。


「怖かった?」


 未だ顔を上げない彼に尋ねる。
 なにが、と問い返す声は意外にしっかりしていた。


「正常な神経の人間にとって、理不尽な暴力は恐怖の対象になり得るんじゃないか。私にはわからないが」
「それはあんたが正常な神経の持ち主じゃないからか、それとも人間じゃないからか」
「人間でないものが正常な神経を持っているはずがないだろう」


 そう返すと、彼はは、と馬鹿にしたように笑った。ぎこちなく顔を上げる。歪んだ表情を成すのは痛みか嘲りか。


「それがあんたの免罪符か」
「赦しを乞うつもりもないが」
「必要ないさ。僕も同じだけあんたを殴れば済むことだ」
「はは」


 そんな平等はないんだ。
 私は呟き、彼の左の側頭部(さっき殴打した方だ)を掴んで地面に叩きつけた。右頬の辺りが擦れ、みる みる血が滲む。口の中に砂が入ったらしく、吐き出す素振りをしたので、いっそう力を込めて顔を地面に押し付けた。
 彼の左手が私の腕にかかる。手探りでたどたどしく降りてゆき、頭を掴んだ指を剥がそうとする。利き腕でない、それも妙な体勢での彼の必死の抵抗にせめてもの敬意を表し、私は体重をかけずに腕の力だけで彼を押さえつけた。こういう状況ではカウントを取るものだろうと云う間の抜けた思いつきから、口の中でちいさく数を数え出す。



「1、2、3」



 いっぱいに広げた五本の指の、そのうちの親指を除いた四本は節を中心に赤くなっている。相変わらず痛みはあるが、動くのだから折れてはいないのだろう。細いくせに意外と頑丈だ。
 例えば、と私は思考する。例えば拳が壊れて赤黒く腫れ上がるほど彼を殴りつけたとして、私が彼に与えられる痛みはせいぜい鼻の骨か歯を数本折るくらいだ。それは私と彼と、どちらがより痛いのだろうか。痛みを与える者と受ける者の間に等号は成立するか。彼が恐怖を覚えたならば、私がそれを甘美だと感じたならば、あるいは。
 私は彼を壊したい訳ではなかった。泣かせたい訳でも、跪かせたい訳でもなかった。その点で私は限りなく成功している。彼は私の腕の下で歯を食いしばり、必死でもがいていた。それが嬉しかった。



「……9、10」



 十数えて手を離した。力の行き場を失った彼の左手は私の手首を掴み、中空に跳ね上げた。彼は砂と血で汚れた顔をこちらに向け、瞑目してみじかく息を吐いた。私は落胆の表情を隠しもしないまま、袖口でそっと彼の顔を拭う。怪訝そうに薄く開かれる彼の目を手で覆い、仕方ない、と笑った。
 彼の短く整えられた爪は、私の皮膚に傷ひとつ与えることはなかった。





10カウント(魚曽)