羽が欲しかった。鳥じゃない。蝶の羽だ。
 ひらひらと頼りなげに、向かい風に負けそうに、それでも花を探して飛ぶ蝶に、焦がれた。
 左手の親指とひとさし指でつまんで捕らえては、その鮮やかな羽をもいで紙に貼りつけた。それはどんな絵よりも綺麗だった。指先にこびりついた鱗粉は、なかなか落ちなかった。




 きっかけは些細な、ほんの些細なことだったように思う。
 戦場での手慰みの賭け事で、イカサマだ、と文句をつけられて。んなこたァねェよ、と軽くいなそうとしても、負けが込んでいた相手の腹の虫は収まらなかった。



「貴様、刀を抜け」



 激昂して叫ぶ男の眼の色は尋常ではなかった。狂った時代で、狂った国で、その中でも最も狂った場所だったのだ。堪えきれるだけの精神を持った者は、そう多くはなかった。
 狭く暗い小屋の中、ゆらり立ち上がり、腰のものに手をかけ。鞘から抜き去るその勢いのまま、一直線に喉笛を切り裂いた。びしゃあっと鮮血が飛び散り、のけぞった首に骨が見えた。



 それからのことは、よく覚えていない。
 仲間内でも元々評判のよくない男ではあった。戦場でもどこか逃げ腰で、虚勢ばかり張って、幕府方と通じていると云う噂もまことしやかに流れていた。きちんとした規律などない集団ではあったけれど、粛清すべきだと云う過激な声もあったらしい。自分は知らなかったが。
 だとしても同志殺しには違いなかったわけで、大変な騒ぎになったはずだ。外に出ていた年長者なども恐らくは呼び戻され、死骸や血の海になった隠れ小屋の処理、果ては自分の処遇を巡ってもいろいろと揉めたのだろうと思う。怒号が飛び交い、いくつもの足音がばたばたと響いていたような気もするが、あまり記憶にはない。
 自分は壁にもたれて座り込み、ぼんやりとそれらを眺めていた。自らが引き起こしたことなのに、なぜだか蚊帳の外にいるような気分だった。
 蝋燭の灯だけがちらちらと燃え、男の血はじわじわと畳に染み込んでいった。自分の着物も返り血でべっとりと濡れていて、でもなぜだかそれがどんな色をしているのか皆目見当もつかなかった。なんとも思わず、なんとも感じなかった。この世界はひどく醜くて澱んでいて腐っていて麻痺していてだれしもが目を背けたくなるようなものなのだから、きっとそれが普通なのだろうと、そう思った。



 痛ェのも、感じねェのかな。



 ふとそんなことを思い、左目に手を当てた。右手には刀を握っていたからで、特に意味はなかった。片目を覆っても、見える世界に大した変化はなかった。見たくもないものであることに、違いなかった。
 指先で眼球のかたちを探る。やっぱり丸いなあ、と思った。だんだんと力を込めてゆく。伸びかけた爪が、まぶたを刺した。

 こちらを見て、たかすぎ、と叫んだのは、あれは銀時だったのだろうか。




 ずぶり。




(羽が欲しかった。鳥じゃない。蝶の羽だ。)
(ひらひらと頼りなげに、向かい風に負けそうに)
(それでも花を探して飛ぶ蝶に)





「……赤ェ」




 指先にこびりついた血は、なかなか落ちなかった。





蝶になる(高杉過去捏造)