ネクタイを締めるのは久々だったので、少々手間取った。生憎と黒は手持ちがなく、研究所の事務職員に頼んで買ってきてもらった。
 黒い背広に袖を通す。はじめて彼女に見せる白いシャツと白衣以外の姿は、喪服だった。



 遺影の中の彼女は理知的な笑みを浮かべていた。それは彼女と云う人間の本質を如実に映しとっていて、私は写真と云う、原理としては紀元前から存在し、しかも現在に至るまで劇的な改良はなされていない(望まれていない、と云うべきか)技術に改めて感心した。それは少し、嫉妬に似た感情でもあった。
 参列者は大勢いた。それは患ってはいたものの優秀な学生であり、またどこか人を惹きつける聡明な女性であった彼女の人望によるものでも当然あっただろうが、著名な数学者である彼女の父の人脈によるところも大きいのだろうと私は推測した。
 人々は皆一様に黒い服に身を包み、棺の中の彼女に手向ける一輪の白い花を手にしていた。その相対する二色の関係性には、0と1におけるそれと通じるところがあるようにも思えた。そう云ったメタファー的なレトリックは自分の常とは異質なもので、やはり私は感傷的になっているらしかった。
 焼香を待つ列は長く、私は最後部に並んだ。私と彼女の関係は結局のところは単なる研究者とその実験体に過ぎず、遺族や友人たちより軽んずる扱いを受けることを特に不公平だとは感じなかった。たとえ壊れゆく彼女と最期のときまで対峙し、誰よりも克明に記録しつづけたのが私であったとしてもそれは同じことだ。私と彼女が共に過ごしたのは彼女の短い生涯においてもごく短い期間であったのは事実だし、私は彼女を治療することはおろか、そのひどく悪意に満ちた病気について何ひとつ解明し得なかったのだから。
 また一歩、列は厳かに進む。整然と連なる無数の黒の背を眺めるのは奇妙な感覚だった。同色のそれらは皆同じようなものに見え、しかしその実、体積も質量も形状も動作もそれぞれ特有のものを持っていた。同じように見えて違うそれらが連なるさまは、どこか数列を想起させた。循環しないから無理数だと、頭の中で意味もなく付け加えた。円周率π、ネイピア数e、それらを脳内で無意味に計算した。
 焼香を終えた若い女性が脇を通り過ぎた。俯いて片手で口元を覆い、小さく嗚咽を漏らすその女性は、恐らく彼女の友人であったのだろう。見るともなしに一瞥して目を逸らし、私はまた歩を進めた。私の順序が来るのは次の次の次で、黒の数列は無理数などではなく規則性がないだけのただの数列だった。終わりのあるものだった。そんな当然のことを失念していた自分を滑稽に思い、脳内での計算を停止した。


 ようやく私の番が訪れる。背後にはまだ参列者があった。このように人数が多い場合は慣例として宗派に関わりなく焼香は一回で済ませるべきであり、ほとんどの参列者はそうしていたので、私もそれに倣った。
 焼香台から棺に歩み寄り、捧げ持っていた白い花を供花する。特に感慨はなかった。ここにあるのは既に彼女自身ではない、「自分」のないただの有機物であり、そもそも彼女の脳死判定を出したのは他ならぬ私であったからだ。
 白い花に埋もれ、薄化粧を施された彼女の遺体は確かに、研究所で息を引き取ったときのそれと比較すると格段に美しかった。ともすると、あまり飾り気のなかった生前よりも華やかに彩られていると云ってもいいかも知れなかった。だが、それがなんだと云うのだろう。



 ここに彼女を彼女たらしめていた、そして彼女自身が何にも代えがたいほど希求し続けていた、彼女の「自分」はないのだ。



 私は棺の中身に興味を失い、背を向けた。私より後ろに並んでいたのは大体が研究所の見知った職員だったため、目礼する者もあったが、私は気づかないふりをして横をすり抜けた。
 彼女の遺体はこれから火葬場へ向かうのだろう。縁者でもない私は同行することはできないだろうし、したいとも思わなかった。有機物が高温の炉内(台車式かロストル式か、どちらにせよ立ち昇る煙すら見ることは叶わない)で燃焼し、骨と灰になる。それだけのことだ。



 黒い喪服に黒いネクタイを締め、彼女に白い花を手向けた私は、数日前に彼女をこの1の世界から0の世界へと追放する宣告を下した。それが事実だった。
 彼女は既に0の世界にあり、隣り合うこの1の世界との間には無限の隔たりがあった。同様に黒と白の間には無限に灰色が続いていて、やはりとても似通った構造をしていた。一点の非の打ちどころもない、残酷なほど完璧な、それが事実だった。




 無限。
 ならば私も、その無限に身を置こう。
 0と1の狭間で、灰色の世界で、君と。




 私はふと足を止め、振り向いた。小さく見える写真の中で微笑む彼女は少なくとも、棺に納められた有機物よりはずっと「自分」の顔をしていた。写真はシャッターの切られたその瞬間を、刹那を、写す。
 そんな単純な原始的な理論がひどく羨ましく、私は息苦しさを覚えて慣れないネクタイを少し緩めた。





ウィンザー・ノット(春刹)