「……チェシャ猫」
「なんだい」


 裾を結んだエプロンの海、歩くたびににんまり顔が跳ねる。トランポリンみたく。たのしそうに。


「目は、回らない?」
「回らないよ」
「なら、いいんだけど」


 防波堤をたどる私は灰色に渦を巻く空を少し見上げて、どうしてこの世界は晴れないのかしらと思う。天候さえ歪んでいるなら、気まぐれになまあたたかい雪でも降るのだろうとも思う。
 赤い海。穏やかに鳴りを潜める水面はまるで夕焼けみたいで。きれいねチェシャ猫、と言うと、見えないよアリス、と声が返った。きっとあなたの方がよく知っているんだろうね。こんな光景をきれいだなんて思うものじゃないことくらい、ずうっとよく知っているんだろうね。


「ねえ」
「なんだい」


 ぽふぽふと弾む生首。靴のかかとがざりざりとコンクリートを擦る。


「いいの?」
「いいんだよ」
「行かないの?」
「行かないよ」
「どうして?」


 チェシャ猫は弾みながら器用に首をかしげて、「行ってもいいのかい」とやっぱりにんまりしながら問う。


「……だめ」
「僕らのアリス、君が望むなら」
「言うと思った」



 ただただこの世界はやさしくてあたたかい。それは私が望んだからで、私はだれにも裏切られたくなくて、でもそんなのってそんなのって。




 しあわせ?




(わたしはなにもしらなかったから無邪気な顔でこの残酷なせかいをつくりあげたのだ)



 私は足を止め、にんまり顔を抱き上げた。目を合わせる高さに掲げ、祈るように呪うように呟く。



「どこへも行かないでね、チェシャ猫」



 僕らのアリス、君が望むなら。
 三日月型の口は何度でもそう動く。私はそれを見てわらう。



 無邪気なふりをして、私は何度でもみずからに刃を突き立てるのだ。





the happiest girl in this world(猫アリ)