たとえば滑るように私をよけていく雨粒を惜しむとして、それはかなしいという感情といとしいという感情のほかになにを。



 ぱたた、と白っぽい滴が傘を叩く。緋色のフリルとレースで構成されたデコラティブなそれは、それでもその役割を完全に果たし得ている。ていうか、これはアリスっていうよりメアリ・ポピンズじゃないのかなあ……


「よく降るねえ」


 傘をくるくると回しながら、エプロンに収めた生首に話しかける。ミルクみたいな雨は霧にも似て、確実に視界を妨げる。


「チェシャ猫、濡れてない?」
「濡れてるね」
「え、うそ! ご、ごめん」
「猫は濡れるのが嫌いなんだよ」
「そ、そうだよね! ごめんね、私傘さすの下手で」
「いいよ、アリス」


 よくよく目を凝らせば、灰色のフードは確かに湿っている。あとで乾かしてあげなきゃと思うけれど、脱がせるのもまずいしさてどうしたものか。
 とりあえず小さめの傘を前傾にさし直し、エプロンの裾で顔についた水滴を拭ってやる。まっさらな布地は水分を吸い取って、すうっとすぐに乾いた。


「……私は濡れないのね」
「アリスは濡れないと決まってるんだよ」


 だから本当は傘はいらないんだけれどね、とチェシャ猫がにんまりしながら言った。濡れないとわかっていても、やっぱり雨の中を手ぶらで歩く気にはなれないな。こんなフリフリの傘もどうかと思うけれど。
 ついでのように顎の下をなでてやると、気持ちよさそうにごろごろと喉を鳴らす。ぎざぎざの歯の間から赤い舌がのぞき、口元をぺろりと舐めた。


「あまい」
「甘いの?」
「雨は甘いものだよ」


 それって飴じゃないのかしら、と思ったけれど、幼い私の考えることなんてきっとその程度なのだろう。
 アリスも舐めてごらん、と猫が言うので、私は中空に手を差し伸べる。


「乾いちゃうわ」
「だろうね」
「どうしたらいいの?」
「僕が雨を舐めて、アリスが僕を舐めればいい」


 言われるがまま、傘を捨ててチェシャ猫の首を抱える。瞬く間に雨は猫のしなやかな皮膚を浸食し、あ、と開いた口の中にもきっといくらか入り込んだことだろう。



「ほら、アリス」



 びしょ濡れの猫が私を見上げてにんまり笑った。私は首をこちら向きに抱え直すと、うん、とうなずいて舌を近づけた。



「……あまい」
「アリスも甘いよ」



 とがった顎の先から甘い滴をしたたらせるチェシャ猫がひどくうらやましくなって、私は乾いた胸にぎゅうとその首を押しつけてやった。
 苦しいよアリス、とくぐもった声は、白い雨に同化して溶けた。





飴夢(あめゆめ)(猫アリ)