文芸部室の扉を開けると、珍しく古泉がパソコンの前に座っていた。 tactics! 「よう。調べ物か」 声をかけつつ、パイプ椅子を引いて腰掛ける。ええまあ、と答える古泉は口元にいけ好かない微笑を湛えていて、女子の目がハートになりそうなその笑みをモニターに投げかけてやる必要性を問うてみたかったがどうせ「これは癖のような感じですから」とかわされるのだろうと思ったので黙っておいた。 来週提出の古文の課題でもやるか、と鞄を漁っていると、カチカチと幾度かマウスをクリックする音の後に古泉が席を立ち、俺の向かいに座った。 「あれ、よかったのか? 別に俺に気を遣うことないぞ」 「ええ、大丈夫です。もう終わりましたから」 なんでこいつの台詞はいちいち胡散臭いんだろうな。無意味に芝居がかってるからか。 まあそんなことはどうでもいいことで、目下の俺の疑問は何かが足りない気がするこの部室だ。ちなみに古文の教科書はなかった。教室に置いてきてしまったようだ。 「ああ、長門さんなら日直だそうですよ」 あ、長門がいないのか。 「こう言っては失礼かも知れませんが、彼女が普通に学校生活を送っている様子と云うのはなかなか想像に難いものですね」と古泉。すまん長門、お前の不在にすら気づけなかった俺は失礼どころの騒ぎではない。 「そう云やハルヒも日直だよ。二人揃ってなんて、奇遇なこともあるもんだな」 「朝比奈さんもまだ来てませんから、もしかしたら三人揃って、かも知れませんよ」 「まさか」 「いやいや、わかりませんよ」 なんなら賭けてみましょうか、と心なしか楽しそうに古泉は言う。男二人のしょっぱい状況で、何がそんなに愉快なのだろうか。 とりあえず朝比奈さんだけでも早く来てほしい。毎日甘露を頂戴しているおかげで、どうやら俺はここに座ると条件反射で喉が渇く体質になってしまったようだ。パブロフの犬ってやつか。 俺がコンロの方をちらりと見ると、「お茶でも淹れましょうか」と古泉が腰を浮かせた。お心遣い誠に感謝だが、野郎の淹れた茶なんぞは飲みたかないね。手振りでいらないと伝えると、机に手をついて立ち上がりかけた姿勢のまま、 「では、オセロなどいかがでしょう?」 今度は俺も頷いた。 古泉が白で俺が黒。勝負は珍しく五分五分、否、少々古泉優勢で進んでいく。部室に花を添える(ハルヒの場合は害をなす、かも知れないが)女子は未だ一人も現れず、珍しいことと云うのは重なるものだなあなどと思いながら頬杖をついて盤面を眺めている。 「なんだか今日は勝てそうな気がします」 「そりゃ良かったな。いつもこうなら俺も張り合いがあるんだが」 くそ、ここに置いたら次に4つも取られちまう。でもほかに置けるところがないから仕方ない。俺が眉根を寄せて盤上の白を黒に返していると、余裕の笑みの(まあいつものことだが)古泉が口を開いた。 「それにしても、なかなかのものですね」 「それは目下劣勢にある俺への嫌味か? 勝ち誇るのはまだ早いぞ、勝負は最後までわからん」 「いえ、そうではなくて。パソコンの中のMIKURUフォルダですよ」 その言葉に次の駒を弄んでいた手が止まる。こいつ、今なんと。 「お前、見たのかあれ」 「はあ。つい好奇心に勝てず、すみません」 「つい、ってなあお前」 と云うか、あのフォルダにはパスワードをかけておいたはずだが。 その辺りを問うと、「以前パスワードを入力していたあなたの手元が窓に映っていたものですから」ときたもんだ。お前、超能力者じゃなくてインチキ手品師か何かじゃないのか。 「お前なあ、あれだ。プライバシーの侵害だぞ、それ」 「しかし、あのパソコンはSOS団の備品でしょう。どちらかと云えば、団長の涼宮さんや被写体の朝比奈さんに内緒で私物化しているあなたの方に問題があるのではないかと思いますが」 涼しい表情で言ってのける古泉。悔しいが正論だよ。だがなあ、願わくば俺は一般男子高校生として普通ーに過ごしていたいところを、このトチ狂った団の非生産的な活動に貴重な放課後や休日を捧げてやっているんだ。このくらいの見返りはあってもいいだろう。 俺の朝比奈さんギャラリー(この場合の「俺の」がかかる場所は「朝比奈さん」ではなくて「朝比奈さんギャラリー」だ。誤解なきよう)を侵す者は何人たりとも許さん、と改めて心に誓っていると、机に肘をついて組んだ指に顎を乗せた古泉が「前からお訊きしたかったんですが」と若干身を乗り出してきた。 「あなたは朝比奈みくるに岡惚れしているんですか?」 岡惚れ……ってなあ、お前。もう少し言い方ってもんがあるだろう。 「それはすみません。で、恋愛感情を抱いているんですか?」 「男同士で恋バナかよ、悪趣味だな」 「お聞かせ願えませんか」 常の如く柔らかな口調で、しかし間髪入れずに尋ねてくる古泉。小首を傾げるな気色悪い。そういうのは朝比奈さんみたいな可憐な女子がやるから絵になるんだ。 ――そうだな、確かに俺は朝比奈さんに好意を抱いているさ。だがそれが恋愛感情かと問われれば即答は出来ない。朝比奈さんはそもそもが文字通り住む世界の違う人だし、不可侵の聖域のようなものだからな。感覚としては、花を愛でたり小動物を慈しんだりするのに近いかも知れない。 「まあ朝比奈さんが彼女だったら人生ウハウハだけどな」と最後に付け加え、俺は返答を終えた。何なんだろうな、この据わりの悪さは。古泉がじっとこっちを見てやがるからか。 「では、あなたは朝比奈みくるが好きと云う訳ではない、と」 「好きは好きだがな。種類が違うってこった」 「なるほど……」 何やら考え込むように視線を落とす古泉に、「お前の番だ」と中断していた勝負を再開するよう促す。ああすみません、とどこか上の空で返した古泉が盤上に白を置いた。 くそ、やっぱり4つ取られた。 ぱちり、ぱちり。 淡々と駒を裏返す音が室内に響く。それにしたって、どうして今日はこんなに集まりが悪いんだろうか。グラウンドから聞こえる運動部の声はとうにアップを終えて練習に入っている。 「たとえば、こういうのはいかがでしょう」 3つ目の角を白で埋めながら、唐突に古泉が口を開く。何なんだ、藪から棒に。 「あなたは、朝比奈さんが好きと云う訳ではない」 「蒸し返すなよ。その話は終わっただろ」 「まあもう少し聞いてください。そしてあなたには恋人や、SOS団関係以外で親密な女性がいる様子もない」 「悪かったな」 「残された不安要素とすれば、あとは涼宮さんですが……」 古泉が上目遣いでちらりとこちらを見た。俺は黙って首を横に振る。ノー・ウエイ、まさか、有り得ない。 クスッと笑った古泉はぱちぱちと駒を裏返してゆく。盤上はほとんど真っ白になり、 「あなたが好きです」 俺の頭も真っ白になった。 「……はあ?」 何をまた突然訳のわからないことを。ハルヒにそそのかされでもしたか。 「あなたに心に決めた相手がいないようで安心しました。それならまだ、僕にもチャンスはある」 「おま、えなあ……冗談ならもうちょっと面白いことを」 「今すぐ答えを出してくれとは言いません。ただ、心の隅にでも僕のことを置いておいて頂ければ」 そこで切なげに笑うか。計算してやってるなら、是非ともその公式を俺にも教えてほしいね。代入する数が違うから、同じ解答は期待できないだろうが。 まあ有り体に云えば、並みの女子ならこの流れで落とせない奴はいないだろう。俺は並みの男子だから関係ないね……ああ、ないはずだ。今ちょっとこいつの表情に見とれてしまったりとか、それに気づいて慌てて目を逸らしたりとか、なんだか心臓が不整脈を打っていたりとか、そういうのはあれだ、もし俺が女子だったらと、うっかりそんな仮定条件下に思考を飛ばしてしまったからだ。だから鎮まれ心臓、鎮まりたまえ! 視界の隅で古泉が、はっきりと種類の違う笑みを浮かべた。 「と、僕が言ったらどうしますか?」 ぽかん、と弛緩してしまった顔を慌てて引き締める。 残り少ない駒を手の中で鳴らしながら、「もっとも、もう答えを聞く必要はないようですが」といけしゃあしゃあとのたまう。 「お前、悪趣味が過ぎるぞ」 「そうですか? 自分では趣味はいい方だと思っているんですけど」 噛み合ってないようで噛み合ってることがわかってしまうのが不愉快だ。 俺は盤面を覗き込み、 「……」 黙って両手を挙げた。投了だ。 「初めて勝ちました」と古泉が嬉しそうに笑う。勝敗表にコンパスで作図したような綺麗な円を書き入れる。そこまで喜ばれると、負け惜しみでもなんでもなくいいことしたような気分になるな。 あさっての方向を向いて軽くため息をついていると、けたたましい音と共にドアが蹴り開けられた。 「ああ〜っもう腹立つ腹立つ腹立つ! 聞いてよキョン、岡部のヤローったら日誌の書き方がなってないって30分も説教しやがるのよ!? ね、有希も見てたわよねあの横暴を!」 文字通りハルヒの小脇に抱えられた長門が、前髪も揺らさずに頷く。 「30分よ30分、30分あったら何ができると思う!?」 「カップラーメンなら10個出来るな」 「はぁあ? バッカじゃないのあんた。んなもん、同時にお湯入れれば百個でも二百個でも3分で出来るじゃないのよ」 あ、そうか。素直に感心してしまった。 ぱたぱたと云う足音に開けっ放しのドアを見やれば、ひょっこり覗く天使のようなご尊顔。「遅れてごめんなさい、日直で……」て、マジですか朝比奈さん。 朝比奈さんのお召し替えタイムと云うことで、俺と古泉は猫の首でもつまむようにぽいっと廊下に放り出されてしまった。閉められた扉を背に、古泉が俺に向かってウインクする。だからそういう仕草は朝比奈さんみたいな……って、もういいやどうでも。 「もうひとつの勝負も僕の勝ちですね。ちゃんと賭けるものを決めておくんでした」 「俺はその賭けに乗った覚えはないがな」 珍しいことってのは本当に重なるもんだ。 いくらか背の高い古泉をちらりと横目で見やると、完璧スマイルが返された。 「あー、もう」 負けが込みすぎだ今日は、とぼやくと、「でも普段負け続きなのはこちらですし、今日も本当は最初から負けていたようなものですよ」と古泉が言った。 それも含めて自分の完敗を認めるのは、悔しいからもう少し先にしておく。 |