(僕のことなんか、ひとつも知らないくせに) (僕のことなんか、明日は忘れるくせに)
ベル(泣き方も知らなかった)
街は未だ闇に塗り込められているとは云え、正時に時計の針が鈍角を描くともう夜が明けてしまうと云う焦燥に駆られる。姿かたちの見えない朝に追い立てられるようにマンションの自室の扉を開くと、靴を脱ぐ気力もなく玄関に倒れ込んだ。 それほど大規模な閉鎖空間と云う訳ではなかった。戦闘も淡々としたものだったし、怪我もしていない。寝入りばなを起こされて現場に向かったことを勘定に入れたとしても、さほど疲労困憊するような要素は見当たらないのだけれど。 「疲れた」 電気もつけずに冷えたフローリングに頬を押し当て、思いつきのように呟いてみる。それは随分と間延びした響きを持って無人の部屋に溶け込んで、なんだか笑い出したいような気分になった。否、泣きたいのか。自分の感情がどちらに傾いているのか、それとも意味もなく笑いたいのと意味もなく泣きたいのは同じ根を持つ衝動なのか、僕にはよくわからなかった。 帰り際に見たタクシーのデジタル時計は4:30を示していた。シャワーを浴びて、報告書をまとめて、2時間でも眠らなければ。明日は(もう今日になるのか)球技大会の朝練がある、とぼんやり思い出し、さっきまで身を置いていた状況の異常さと数時間後に自分がいるであろう状況の普遍性を思ってまたおかしくなった。こんなことがおかしく思えるのは僕自身がおかしくなりかけているからなのかも知れない、と思って、それすらもがおかしく感じられた。 のろのろと身体を起こし、乱雑に靴を脱ぎ捨てる。電灯のスイッチを探してぺたぺたと壁を叩き(なぜだかいつまで経っても身体が覚えない)、探り当てたそれをぱちりと入れる。蛍光灯の暴力的な白が眼球を刺した。彼女――神の目の届かないこんなときにまでシャツのボタンをきっちり留めている自分に半ば呆れ、第2ボタンまで外してついでにベルトも抜き取る。すっからかんの冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、そのまま口をつけて飲んだ。軟水なのにやけに苦く感じた。舌の上で水を転がしながらベッドに座り込むと、それっきり立ち上がれなくなる。 自らの役目に疑問を抱いている訳ではない。そんなもの、三年前のあの日からつけ入る隙さえ許されてはいない。神の暴戻を憎むでも、その神に無作為抽出された自らの境遇を憂うでもない。理解も納得も刷り込まれたものであって、するのではなくせざるを得なかったから。 それならば、それなら、僕の内部に凝るこの重く苦いものは? 「っ」 ポケットの中で、耳障りな振動音が着信を告げる。だるい手を動かしてその発生源を引きずり出し、ぱかりと画面を開いてそこに表示された名前に息を呑む。痙攣なのか意思によるものなのか自分でもわからない動作で、親指が通話ボタンを押した。 『うわっ』 はい、と言う前に、驚嘆の声が耳に届く。 『っと、悪い。まさか出るとは思わなくて』 「予想を裏切ってしまったようで恐縮です」 いやそれはいいんだが、と云うか、すまんこんな時間に、と、妙に戸惑った様子の彼。もしや寝惚けているのだろうかと思ったが、本人にそんなことを訊きはしない。 代わりに電話口の彼には見えない笑顔を貼り付け、「構いませんよ」と返した。 「眠ってはいませんでしたから」 『そうか……なあ、お前』 「はい?」 『もしかしなくても、バイト帰りじゃないのか』 遠慮がちに発せられた言葉に瞬く。普通人の彼に閉鎖空間の発生を察知する能力はないはずだ。ならば、自分は一言二言で彼に気取られるほど声に疲れをにじませていたのだろうか。 不自然と云えるだけの間を置いてから、苦笑まじりに彼の問いに答える。 「お見通しなんですね。確かにさっき家に着いたところですが、どうして?」 『どうしてって、なんとなくそんな気がしただけだ。今帰ってきたところなら疲れてるよな。すまん、もう切る』 「いえ、構いませんよ」 同じ台詞をもう一度くり返す。「それより、なにかあったんですか? なにか用があって電話してきたのでは?」と続けると、彼はうーだかあーだか言いよどむような唸り声を上げてから、『用ってほどのことでもないんだが』『なんと云うかだな、その』『まあ要するにあれだ』と更にたっぷり言いよどみ、そしてこう言った。 『元気か、古泉』 彼のその一言が、ぽとりと鼓膜に染みた。不可視な電波に乗って届いたその音の波に温度などあるはずもないのに、ともすればそれは僕の身体を巡る血よりも温かいような錯覚を覚えて。 気づけば僕は、震える手でくしゃりとシャツの袷を掴んでいた。 昨日も会ったってのに何言ってんだろうな、悪い、用もないのに、と半ば独りごちる彼の声が遠く聞こえる。 「げんきですよ」 震える唇がやっとのことで紡いだ声は、思いのほか普通の響きを持っていた。電話でよかった。対面していたならばばれていただろう。僕は多分今笑えていない。 「元気です」 『そ、か。ならいいんだ、悪かったな』 「いえ、ありがとうございます」 『? なんの礼だよ』 「なんとなくです」 口元を歪ませ、ふふ、と空気を漏らすと、『電話越しに笑うな気色悪い』と叱られた。笑いたいのか泣きたいのかわからないまま、僕はくすくすと吐息を漏らし続ける。 『だから笑うなって。切るぞ』 「ええ、すみません」 『無駄に時間取らせておいてなんだが、少しでも寝ておけよ。隈なんか作ってきた日にはハルヒが心配するぞ』 「あなたは心配してくれないんですか?」 『ッ前なあ……心配はせんが、気にはなるし気に食わんからいいからさっさと寝ろ。おやすみ』 「ええ、おやすみなさい」 最後に『また明日』と云う呟きが滑り込んで、彼の方から通話が打ち切られた。無音を告げる携帯をしばらく耳に当て、思い出したようにぱちんと閉じる。シャツを握りしめたままの手は、まだ震えていた。 俯いてぎゅっと目を閉じ、奥歯を噛みしめる。目の奥が熱くなって、途方もない息苦しさを覚えた。口を開き、衝動のままに喉の奥から無様な声を絞り出す。 「っふ、う、あ、あぁああ……!」 着信履歴には彼の名前。彼の側の発信履歴には僕の名前。繋がりなんてそんなものだ。そんな頼りない僕らの、微弱な電波の、切断された回線の、それでも温かな彼の声ばかりが、ぐるぐる頭を回って。 彼の無自覚な、無神経な、なんにもしらない、残酷な、だってそんな、やさしすぎる。ひとりぼっちの部屋で、僕が、僕だけが、訳もわからずひとり嗚咽を上げている。 カーテンの隙間から見える空は、薄らと白みはじめていた。 (song by BUMP OF CHICKEN) |