※グロテスク表現及び食人描写を含みます。苦手な方はご遠慮ください。


































 没個性的な廃ビルの一室。陽が傾きはじめる直前の、白い、白い、午後に。










【白日、あるいは物語の崩壊について】










 男は息を切らしていた。
 少女は息ひとつ乱していなかった。
 死骸は息をしていなかった。




「う、そだ」




 うわごとのように呟く声は、きっと彼本来のものではない。かすれて裏返って、壊れた合成音声のようだった。
 少女は無声映画のように静かに死骸の元に歩み寄り、膝をついて半分しかない頭に手を伸べた。スカートの裾と、靴下と、白い指先が、血に染まった。


「ごめんなさい、守れなかった」


 まもれなかった。
 少女は無感動に二度くりかえした。ぶれることのない瞳が死骸を捉える。薄く開いた口がもうなにも語らないことも、片方だけの虚ろな目がもうなにも映さないことも、少女は理解していた。それがとてつもなく悲しく、恐ろしく、狂ったほうがいっそしあわせなくらいに馬鹿げたことだと云うのも、理解していた。
 背後で男がくずおれ、嘔吐した。胃液の臭いが、元々室内に満ちていた血の臭いと混じり合った。


「はあッ、はっ、はっ……」


 生理的にこみ上げる不快な唾液が、男の口からつうっと垂れた。拭いもせずに顔を上げる。足を引きずって立ち上がり、数歩前進した。力の入らない拳を固める。


「戻せ」
「どれを」
「彼でも、僕らでも、この状況全部でもいい!戻せ、元の状態に、まだなにも起こっていないときに、いつもの彼に、日常に」
「できない」
「っどうして!」


 男が叫んだ。絶叫だった。
 少女は唇以外を動かすことなく、淡々と告げる。


「ここにある彼を修復することは可能。この空間を現在から遡及して一定単位時間異空間化し、その間の事象を無効化することも可能。でもそれは無意味」
「っから、どうして……!」
「朝比奈みくるの言葉を借りれば、この時間平面とこの先の彼が死亡している時間平面には断絶がある。ここで彼が殺害されたことを無効化しても、未来は変わらない。彼はこの時間平面のどこかで、死亡する」


 少女は死骸の血まみれの腕を取った。妙な形に折れ曲がったそれは少女の手の中で滑り、べちゃりと落ちた。


「無意味だなんて、か、彼を助けるのが無意味だなんて、そんなことあるもんか! 殺されそうになったら守ればいい、何度だって守ればいい! 未来なんて、そんなもの必要ない、僕らはずっと今で、ここで、僕らは」
「あなたは理解している」


 少女が音もなく立ち上がる。頚椎ひとつぶん、のような機械じみた動きで顔を上げ、言った。


「受け入れたくないだけ」


 痙攣のように喉を鳴らし、男は再びその場に座り込んだ。獣の唸り声とも嬰児の泣き声ともつかない声が、その口から漏れる。ぶるぶる震える手がコンクリートの床を掻き、短く整えられた爪が剥がれた。
 少女は死骸をまたぎ越し、血溜りをぴしゃぴしゃと歩く。赤い川を辿るように壁際まで行くと、そこに転がっていたものを拾い上げた。少女はその赤い塊――肉片やら脳髄の欠片やら視神経などがひっついた、焦茶色の虹彩を持つ眼球――を躊躇なく口に含み、咀嚼せずに飲み下した。彼のめだまが、ごろりと音を立てて食道を滑り落ちていった。大きすぎる塊がつっかえている感覚に少女は胸に手を当て、そしてはじめて無音ではなく無言と呼ぶべき空白を思い知った。
 男の慟哭ばかりが、音だった。





 あるひとつのちっぽけな存在が消えた昼、世界は己が確かなる誤謬と欺瞞に満ちていたことにようやく気づくのだ。








かみさまなんかいなかった