ひと呼吸ぶん目を閉じて開いたら、太陽が3ミリ沈んでいた。きちんと測ったわけではないけれどそうに違いなく、定数はわからないけれどもそれに比例して足元の影は長く伸びていた。 僕は長い坂の手前の、下りきった先のところで、ガードレールに腰掛けて彼を待っている。 すべてのことにおいてきっかけなんて本当に些細なことで、だからそれを頭から順序立ててわかりやすく簡潔に説明しなさい、などと云われても僕には到底出来るはずなどなかった。ただ胸を張って言えるのは、僕はこの日常とそれにまつわる登場人物を愛していて、とりわけ彼を愛していると云うことだ。 今となっては舞台から降ろされてしまったとしても、それは変わらない。 住宅街が橙に沈む。幾本も走る電線にまばらに止まる鳥を写真に撮ってショパンのポロネーズを採譜するのと、タイプライターの上で猫を歩かせてシェイクスピアの戯曲を書き上げるのではどちらが難しいのだろうか、と僕はぼんやり考えた。(撮影者の恣意的な操作が加えられることを鑑みれば、前者の方がわずかに容易であろうか)(いやしかし、何年もかけて念入りに猫を躾ければ、あるいは)(どちらにせよ、その程度の奇跡ならば彼女にとっては造作もないことだ) 僕は低いガードレールの上で足をばたつかせる。自分は今とても暇を持て余している、と感じた。世界の中心に限りなく近いところで毎日戦々恐々としていた昨日までの自分がひどく懐かしく、いとおしく、なんだかおかしみを覚える。今の僕にはすべきこともないし、出来ることもなかった。すっかり蚊帳の外だった。 「だから、どうしてそういう話になるのかと訊いてるんだ」 ぴくり、物音を察知した小動物のように顔を上げる。学校を起点としてだらだらと伸びる傾斜をこれまただらだらと下りてくるのは紛れもなく彼その人で、さすがに足音だけではわからなかっただろうから声を聞くことが出来たのはとても幸運だった。まだシルエットの彼が、だんだんとこちらへやってくる。 「うん? ……いや、だからな……まあそれはそうなんだが。でもそれじゃ朝比奈さんに悪いとか、そういう風には思わないのかお前は」 電話口でわめいているのは涼宮さんだろう。彼は通話に気を取られているようで、その歩みは普段よりも遅い。ゆっくりでいい、何なら立ち止まってくれたっていい。どうか少しでも長くこの夕に。 「とにかく、明日もう一回話し合いを……嫌なら確認だけでもいいから。ああ。切るぞ」 「じゃあま」と不自然に途切れた言葉は恐らく「た明日」、と続くはずだったのだろう。切られたらしい携帯をしばらく無言で見つめ、短く嘆息したのちパチンと折りたたんでポケットに押し込む。 彼は両手をポケットに突っ込んで気持ち斜め上を見ながら、足を投げ出すようにして歩いていた。どこかふてくされているような、疲れているような、そんな歩き方だ。元来はつらつと動く方ではなかったと記憶してはいるが、こういったあからさまで子供っぽい仕草は少々目新しいものがある。あれだけ見ていたのにまだ知らない部分があった。それが寂しくもあり、嬉しくもあり。 抑えきれずにクスッと笑うと、ハイキングコース復路を踏破した彼が真横を通った。一瞬だけちらりとこちらに目をやり、視線が絡む。絡んだ、そう思ったのはきっと僕だけで、彼の視線は僕を通り過ぎて遠くに行ってからすぐに進行方向へと戻された。覇気のない様子でそのまま数メートル歩き、十字路のところで前を横切る自転車に足を止め、何気なく振り向いた。かすかに眉をひそめ、不機嫌そうな表情を作る。 (え) それはやはり一瞬のことだった。彼はまずいものでも口にしたような顔のまま、自らの帰路を辿ってゆく。猫背ぎみの後ろ姿がのろのろと遠ざかり、角を曲がって、消えた。それで終わりだった。 僕はガードレールの上に座ったまま、腹の前で両手を組んで自分の靴先に目を落とした。逃がさないように踏みつけていたはずの影はいつの間にか薄闇に食われてしまっていた。夕暮れはとてもノスタルジックだったけれど、夜が迫ってしまえばそこにあるのは絶望と諦念ばかりだ。 組んだ手を額に当て、目を閉じて振り向きざまの彼を思い出す。もしくは、焼き付ける。それは祈りにしては随分と不格好で、別れの挨拶にしては大層ひとりよがりなものだった。 (ねえ、あなたは知っていますか。僕はこの世界から消えてしまったんですよ。) (song by たま) |