蝉が鳴いていた。夏を生き急ぐ、僕らのように。
晩夏の福音
8月に入ってからと云うもの熱帯夜は自重することなく連続記録を更新しつづけ、毎日毎晩酷使されまくった10年物の俺の部屋のエアコンはとうとうストを起こした。まさか暑いからと云って思春期間近の妹の部屋に枕持って押しかけるわけにもいかず、仕方なく眠れぬ夜を散歩なぞしてやり過ごしている。 しっかし、徒歩圏内に24時間空いてる店があるなんて便利な時代になったもんだな。コンビニで買ったアイスをかじりながらそんなことをしみじみ思うが、コンビニが7時〜11時営業だった頃のことを知っているわけではない。田舎とか行くとコンビニも9時頃閉まっちまうんだってな。信じがたい話だ。 少し遠回りをして近所の公園に差しかかると、外灯の下のベンチに人影が見えた。この陽気で盛ってるカップルでもいやがるのか、と目を凝らしてみると、これがどうして人影は一人である。それなら路上生活者か何かか、と思ってもう少し近寄ってみると、なんだか見覚えのある横顔が…… 「あれ、どうもこんばんは」 「おいおい、奇遇にもほどがあるぞ」 こんなとこでこんな時間に何やってるんだお前、と驚きをぶつければ、そいつ――古泉一樹はいやあ、と爽やかに笑った。こんな蒸し暑い丑三つ時によくそんな高原を渡る朝の風みたいな表情が生み出せるな。尊敬通り越して呆れ通り越して一周して尊敬するよ。 「最近どうにも生活が昼夜逆転してしまいまして。まったく外に出ないのもあれなので、仕方なく夜の散歩を日課としているわけです」 「散歩ったって、お前の家こっちの方じゃなかっただろ。どんだけ歩いてきたんだよ」 「どれだけ、と言われましても……そうですね、大体往復2時間プラスマイナス30分くらいのコースで毎晩歩いているんですが」 「お前なあ……そんな長時間うろうろしてたら変質者と間違われるぞ」 夜中にこんなのが家の前をふらふら通ったら、俺だったら絶対通報するね。そう言ってやると、古泉は「それはそれは、気をつけます」と全然真剣に捉えていない感じで返事をした。そんな危機感ゼロで、帰りに職質かけられても知らないぞ。深夜徘徊で補導されたりしたら困るだろう、優等生。 「あなたは、こんな時間に何を?」 「ああ、暑くて眠れないんでな。まあ散歩だな、俺も」 隣いいか、と尋ねると快諾が返ってきたので、少し間を空けてベンチに腰掛けた。思い出してさっきコンビニで買ってきたペットボトルのお茶を差し出すと、古泉は逡巡する様子を見せてから「すみません、頂きます」と受け取った。 「そう云えば、よく考えてみればお久しぶりですね」 こくり、とお茶を一口飲んだ古泉が妙に感慨深げに言う。しばらく会っていなかったのは事実だが、たかだか二週間やそこらのことだ。そんなにどうこう云うほどのことでもないと思う。 とは云え、各々が暇を持て余している夏休みに(俺だけか? そりゃ失礼)これだけの期間ハルヒから招集がかからなかったのは驚嘆に値することだ。家族旅行にでも出かけているのだろうか。あいつのことだ、宿題に追われてるってセンはないな。 「最近ハルヒに会ったか?」 「いいえ。無意識下で呼び出されることは少なくありませんが」 「……あれ、起こってるのか」 「ええ、まあ」 語尾を濁すように笑う表情に、こいつの生活リズムが狂うのはハルヒのせいなんだろうな、と思った。夜中にバイトに駆り出されても、翌日学校がなければ無理に起きなくてもいいもんな。 「明日辺りハルヒにメールしてみるよ。それでどうなるとも思えんが」 「いえ、ありがとうございます。きっと変わりますよ」 「期待はするなよ」 思い上がったことを言ったような気がして、乱暴に言い置いて残りのアイスを口に押し込んだ。細かな氷の粒ががり、と音を立てる。 古泉は「神以外に世界を動かせるとしたら、それはきっとあなたなんでしょうね」と本の一節を暗唱するように言い、ペットボトルを弄んだ。 「……蝉」 「え」 唐突に呟いた俺に、古泉が虚をつかれたような顔をする。俺は黙って外灯の照らす円から少し離れた場所を指さした。死にかけの蝉が一匹、じじ、とノイズのような音を立てながら地面に転がっていた。 「ああ」 夏の風物詩ですね、とどこかずれた答えを返す古泉。 「七日目か」 「天寿を全うするところですかね」 「七日で一体何が出来たんだろうな」 恋をしたか。子孫を残せたか。空の青さを知ったか。たったひと夏の、そのうちのたった七日で、どれだけ飛ぶことが出来ただろうか。 抑制された七年間と濃縮された七日間。どちらがより幸福かなんて、一世紀を生きることの出来る俺たちには知るよしもない。 「……帰るか」 脇のビニール袋を掴み、腰を浮かせる。公園の時計の文字盤は読めないが、多分2時とかそんなもんか。さすがにそろそろ寝ないと、昼過ぎに妹に腹に飛び乗られて叩き起こされる羽目になりかねない。昼飯も食いっぱぐれるかも知れんしな。 「じゃあ」 「ええ、おやすみなさい」 「昼夜逆転、学校はじまるまでには直しとけよ」 「心得ました」 ふふっと笑みをこぼし、古泉は芝居がかった仕草で胸に手を当てた。 俺は古泉に軽く片手を挙げて公園の出口へ足を向ける。ばちち、とショートするような音を立て、瀕死の蝉が地面の上を跳ねた。昼間のうちに耳に染みついたその鳴き声を頭の中に響かせる。 「 」 ぴたと足を止め、振り返った。目が合った古泉は、なぜかすがるような表情を浮かべていた。 「呼んだか?」 「聞こえないと……思いました」 聞こえやしないさ。だって蝉が鳴いている。 刹那、視線が交錯した。 「……」 俺は無言で古泉の前まで戻る。古泉も呆けたようなツラで、黙って俺を見上げた。 そっと手を伸ばして、古泉の頭の上に乗せてみる。どうせさらさらなんだろうと思ったけれど、それは予想外に汗ばんで湿っていた。 「帰らなくて、いいんですか」 「お前が呼び止めるからだろ」 「すみません」 ちっとも悪く思っていないような声音で古泉が謝る。部屋着のタンクトップから伸びた俺の腕を、熱い手が掴んだ。そろり、恐る恐る手のひらを重ね、自らの頬へと滑らせる。 ああ、何やってんだろうな俺たち。「夏だから」なんて言い訳は通用しないぜ。 残された時間があと七日だとしたら、俺たちは何もかもかなぐり捨てて恋でもするのだろうか。力尽きるまで飛んで、抱き合って死にでもするか。そんな気ちがいじみたことを思いながら、俺は古泉の伏せた睫毛を眺めていた。 耳の奥で喚きたてる蝉の声は大きくなり、背後の蝉はいつの間にか沈黙していた。 |